斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

アルピニスト宣言

わたしは、私たちは、日常のあらゆる場面で意思決定を迫られる。

 

「夕飯に何をたべるのか」、「休日はどこへ遊びにいくのか」といった些細なものから、進学、職業選択、結婚といった、人生の転機となる重大なものまで、意思決定の内容の幅は多岐にわたる。

 

これらの意思決定時に、なかなか避けては通れないものがある。

それは「後悔」だ。

 

 

私たちは膨大な意思選択をこなしていく中で、常に納得のいく選択をし、自分の望んだ結果を得られるとは限らない。

 

時には「これでよかったのか」と過去の意思決定を不安に思い、「もっと別の選択肢を選んだ方がよかったのではないか」と決定後の現状を悲観しながら反実仮想を想起することもあるだろうし。  

あるいは、「こんなことをしたら後々後悔してしまうのではないか」と未来を想像して怖気づき、なかなか意思決定に踏み切れないこともあるかもしれない。


 

こうしてみると、後悔とは過去志向的ー未来志向的という相反する面をもった厄介な存在であることがよくわかる。

ちなみに心理学では前者を「経験後悔」、後者は「予期的後悔」と呼ぶのであるが、

わたしはいま、「予期的後悔」の真っ只中にいる。

 

 


近ごろ、自分の下す意思決定にまったく自信も確信も持てずにいた。

内定先の選定から始まって、挙げ句の果てには今日食べる学食のメニューまで。

「転んだ先の後悔」とでもいえばいいだろうか。

 

何をするにも、自分が行うすべての意思決定が、すべて後悔につながってしまうのではないかという疑念が浮んでしまう。さらに疑念に付随して、抑うつ感情が頭を覆い尽くす。めちゃつらい。そんな状態がここのところずっと続いていた。

 

これまで

「(なんか面白そうだから)これ!!!!!!」とイノシシのように意思決定をこなしてきた我が人生であったが、

いい加減意思決定を獣から人間に進化させる必要があるということなのだろうか。と最初は思っていた。いやはや、早く人間になりたーい。闇に紛れて生きたくなーい。なんて、思っていた。

 

進化の必要性をぼちぼちと感じてはいたものの、でもどうにもならなくて、もはやなぜどうにもならないのかもわからなくて、というか、何がわからないのかもわからずにメンがヘラっていたら、友人たちが色々と話を聞いてくれた。

 

 私の友人たちは、それなりに論理的思考ができてそこそこの問題特定能力のある割とまともなメンがヘラってないひとが多い。だから、みんながみんなちゃんとしたアドバイスをくれた。

 

 

優先順位を決めるんだよ

 

自分がどうありたいか、どうなりたいかを考えるんだよ、そっから逆算して決断をしなよ

 

これだったら自分でもやっていけそうだな、自分に合いそうだなと思うものを選んだら。

 

 

 どれもこれもぐう正論だった。それなにも程があった。私はアドバイスをくれるたびにありがとうありがとうその通りだよねと赤ベコのように首を縦に振った。でも決められなかった。決めるのが怖かった。

 

そうだよねそうだよね、わかっちゃいるんだけどね、いや、わかってないのか、わかってないから決めれないのか、いやむしろわかっていることはなんだ、わかってないことはなんだ、てか、わかるってなんだ?

 

友人たちと話せば話すほどに、IQ3くらいの内省と自己理解と問題特定と論理的思考と仮説思考しかできない自分に、心底嫌気がさした。

 

と同時に、彼女らが行ってきた、あるいはこれから行うであろう意思決定の「人間らしさ」が眩しくて眩しくて。「私はこうやって決めてきたよ」と話す姿を赤ベコ猪はただただ目を細めて見つめるしかなかった。

 

 「将来は夫婦間の関係が対等で、居心地の良い家庭をつくりたい。○歳までに結婚して、子どももほしい。そして出産後しばらくブランクがあっても仕事に復帰できるような専門職につきたい、だから私は今この選択をする」

「今自分の家はこのような経済状態。なので早く自立をしたい。経済的に自立することは将来的に考えて悪いことではない。だから私は今、この選択をする」

「母親の生き方を見ていて、資格を持つことの大切さが身に染みた。加えて、自分が何者であるかの証がほしいから、だから私は今、この選択をする」

「自分は能力・体力的にこの程度の仕事が出来そうだ。最低限稼いで生きていければそれでいいし、だから私は今、この選択をする」

 

彼女たちはそれぞれいろいろと抱えていて、でも抱えているなりに前を向いて、足を止めることなく一歩一歩、意思決定をこなしてきていたし、現にこなしていた。それってとってもまぶしくて、きれいだなと、赤ベコのように頷きながら、私はほんとうにそう思った。


 そんな彼女たちと自分の意思決定の差異を比べてみて。彼女たちという人間と私という獣の意思決定の差異について、内省してみて、ここ数日で、ふと気がついたことがある。

 

彼女たちが行う「人間の人生の意思決定」とは、おそらく登山に近しい。 

自分がどこにいるのかがわかっていて、

自分が山に登りたいことがわかっていて、

どの山に登るかを決めていて、

そのための装備を準備していて、

目的地が分っているから道に迷っても、用意したコンパスを使って立て直すことができて、

登っている間も、自分がどこにいるのか、何号目に立っているのか、理解しながら足を進めている。

彼女たちにとっての意思決定とは、山頂という人生の目標やなりたい自分に向かうための一歩一歩だ。大なり小なりの意思決定は登頂のための過程に過ぎない。

 

対して、「私の人生の意思決定」は、おそらく動物の狩りに近しい。

 自分がどこにいるのかわからないけどとりあえずお腹が空いていて、

目の前に美味しそうなもの(面白そうなもの)を見つけたらそれに飛びつき追いかけて、

追いかけて追いかけて、

逃したりたまに捕まえたりして、

そして決着がついた後に周りを見渡してみるともう全然知らないところにいることに気がつき、ふりだしにもどる。


一見、目の前のものは目標に見えるけれど、それは取れたり取れなかったりして、安定はしていない。不安定だ。不安だ。なぜなら山と違って「動くもの」だから。


かといって、「もの」を取れたとしても安心はできない。取るために無我夢中で追いかけるから、方向感覚を失って、今いる場所がわからなくなってしまっているから。だからものを取れてもこう思う。


不安だ。



今いる場所がわからなくて不安だからとりあえず新しく現れた目の前のものに飛びついて、無我夢中で追いかける。繰り返す。驚くほど生産性がない。



おそらく、私の転んだ先の後悔の根源はここにあるのだろう。


不安。


自分が今いる場所がわからなくて、

自分がこれから向かう場所がわからなくて、

自分がどうなりたいのかがわからなくて、

自分の今しか見えなくて、


不安で、不安だから、自分が正しい意思決定をする姿が想像できずにいる。

目指す山が分からないから、歩きすぎて、走りすぎてマメができて、足が潰れたらどうしようかと思っている。マメができたら山小屋で休むこともできるのに、山に登っていないから、山小屋も知らない私は、足が潰れたら終わりだと思っている。



思うに、私は今、まじで人生の岐路的なところに立たされているのだろう。



私は私の山を見つけなければならない。

エベレストでも、富士山でも、高尾山でも、もはやちょっとした峠レベルでもいいのかもしれない。けど、とにかく、とにかく私は私が登る山を見つけなければならない。


狩りをして、生肉食って、口の周りを血で濡らして、えーやっぱちがうーもっとーというのはもうやめる。


私は私の山をみつけます。そして登ります。バックパックしょって、コンパス持って、登ります。


私は、アルピニストになります。




 

全ての人に「布の母」を

読みました。黒子のバスケ脅迫事件の被告人最終意見陳述書。

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

素晴らしい文章です。本当にすごい。

ある種の人にとって、ずっと心の中に引っかかっていたけど、

言語化できなかったモヤモヤ・不安・不快感・嫌悪感を、非常にロジカルに端的に、例えを交えて分かりやすく論じています。

これを読んだ一部のインターネッツピーポーは親指でスワイプをしながら、あるいはマウスでカーソルを動かしながら、ため息のようなか細い「それな」という音を喉からもらしたことと思います。

 

私は彼の文章を一通り読んでいて、ある心理学の実験を思い出しました。

それはハリー・ハーロー(Harry Harlow, 1905-1981)が行ったアカゲザルの子どもを用いて「愛着」についてを検証した実験です。

 

「布の母」について

 ハローはアカゲザルの赤ちゃんを母親と分離させ一人きりにし、その子の前に二種類の「母親の模型」を設置しました。

 

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右側が針金製で哺乳瓶を付けた模型

左側も針金製なのですが布が巻き付けられている模型です。

 

ハローは当初、アカゲザルの子は針金哺乳瓶模型 に愛着をしめす(=くっついて離れないのでは)と考えてました。

なぜならば、子供が親に愛着を持つのは「自分を養育してくれる存在だから」、つまりいってしまえば「メシを食わせてくれるから」であると仮定していたからです。

 

しかし、実験結果は驚くべきものでした。

まあ、写真見たらわかるわって話ですが。

赤ちゃんザルは始めは針金哺乳瓶に抱き着き、おなか一杯になるまでたらふくミルクを飲んだ後、すぐに布を巻いた模型に抱き着きそこを決して離れなかったのです。

付け加え、赤ちゃんに対して大きな音を立てて恐怖を煽ってみると、必ず赤ちゃんは布の模型(=布の母)にしがみついたといいます。

 

さらに、実験には後日談があって、

この赤ちゃんは実験後親元・仲間のサルたちの元へと戻されるのですが、なかなか集団になじめず、親や仲間に対して問題行動をとってしまったといいます。

攻撃的になったり、関係の構築を回避してしまったのです。

 

この実験が示したことはとても興味深く、そして重いことであると思います。

「だた、メシを食わせるだけが親の役割ではないのではないか」ということです。

「子どもにとっての心地よい接触を与えること」

「子どもが何かあった時の安全基地となること」

 

これらの役割をはたして初めて親は親となりえ、子どもは子どもとして社会的に成長ができるのではないか。この実験はそんな残酷な事実を突きつけているのでしょう。

 

黒子のバスケの人に思うこと

バスケの人は、意見陳述の冒頭でいくつかの「独自用語」を提示・定義付け・解説していましたが、そのなかで特に目をひく語句がありました。それは「安心」です。

氏はこの安心が「社会的存在になるために必要不可欠」な「人間が生きる力の源」とした上で、このように述べています。

 

乳幼児期に両親もしくはそれに該当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。

例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当てをしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。

またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。

 

なじみはあるけど、どこかあいまいな「安心」という概念を本当に的確に表現している名文なので、まるっと引用をしました。

 

文章はこの後、論題は安心を獲得できなかった者がたどる末路、「生ける屍」についての解説と考察になるのですが、私はこの部分を読んでいて、先に述べた「布の母」の実験が頭から離れませんでした。

 

氏に対し、いい歳なんだから全部親のせいにするんじゃねえ、という批判があるようですが、それは違うと私は思います。

実験した子ザルが社会的生活を送りにくくなってしまったこと。そしてこの氏が「生ける屍」になってしまったその背景には、親との愛着関係の不成立という自身で(その当時、養育される立場としては)どうすることもできない因果があります。

 

地球に住んでいると、酸素があって息ができるのが当たり前で特に意識もありがたみも感じませんが、いざ宇宙に出てみれば息を吸うこと、それは死活問題です。

いかに息を吸うか・吸い続けられるかが重視され、価値を持つ宇宙空間と、とくにそれが見向きもされず、価値を持たない地球。地球に住む人は、宇宙で息を吸うということがどれだけ難しくて、どれだけ大変か、知る由もないでしょう。

この関係は氏への批判にもつながる気がします。人は自分が当たり前に持っているものの価値を見くびる傾向があるからです。親のせいばかりにしすぎという人は、「健全な愛着関係を築ける親」を特別なものだと思っていません。だってそれは自分の親だし、友達の親も大そうだから。そんな親、あってあたりまえだから。

彼らにとっては当たり前だからあってもプラスにはならないけど、なかったらマイナスになるでしょう。いや、マイナスどころか「当人の努力不足・能力不足・我侭のために所持していない」というレッテルも貼りかねない。


あなたが我がままいったから親が冷たくしたんじゃないの?

あなたがいい子にしなかったからじゃないの?

そりゃあ親だって人間だから、いい子出来る子の方を可愛がるでしょ?



悲しいです。悲しいですが!「まともな親」のみならす、世の中はそんな当たり前の人たちが当たり前だと思って持っているのものであふれています。平均的年収・平均的学歴・平均的コミュニケーション能力・平均的容姿。

なんで?なんで持ってないの?なんで?

そんな声が聞こえてくる気がします。

ああ最高に世知辛くてギルティですね。

 

だからこそ、だからこそ、氏は得ることができなかった安心を求めたのでしょう。

ちょっと当たり前でなくても、不完全でも、欠けていても、持ってなくても、生きていていい。

たったその言葉がほしかったのです。生きていていい。たった七文字のその言葉を。

 

このクソみたいな世の中のすべての人、能力のある人・ない人、頭のいい人・悪い人、容姿がいい人・悪い人、自信がある人・持てない人、すべての人に安心を。すべての人に布の母を。私は、本当に、そう思えてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに心理学における愛着研究の第一人者がこの方です。

人間における母子間の愛着形成がその後の人間関係にどのような影響を与えるのかということが述べてあり、とてもおもしろい(人によっては読んでて辛いかも)です。

ボウルビイ母子関係入門

ボウルビイ母子関係入門

 

 

 

 

 

生きること、それそのものが「業」(カルマ)なのか 新庄耕『ニューカルマ』感想

 

以下、読書感想文である。

高校生ぶりだぞ、こういう文章書くの。

 

 

新庄耕さんの『ニューカルマ』を読んだ。

 

新庄さんは『狭小邸宅』を拝見して以来すごく惹かれている作家さんである。

そんな新庄さんの新刊がでてると今さら知り、先日購入をした。

 

ハマったきっかけである『狭小邸宅』は、

上司に暴力振るわれ・罵倒され・詰められてた「客を殺せない」三流企業のダメ不動産営業マン松尾(多分慶応出身)が、

ぜってえ売れねえっていわれてた蒲田の狭小邸宅を売ることに成功するんだけど、

評価と羨望と自尊心と給料と引き換えに心の中にあるなにか大切なものを失ってしまってめでたしめでたしできませんでしたって話。

 

私、この「めでたしめでたし、ってなるわけねーだろ」って感じのラストがすごい好きで。

 

突き放しているわけでもなく、かといって必要以上に「ほらあ~これがノルマに詰められた社畜の末路だよお~~~恐ろしいだろう~~~~」とあおるわけでもなく

「ま、これじゃ幸せになれないよね?なんでかはわかんないけど、てか幸せってなんだっけ?」って読者にも問いかけるみたいな、まじで精神ぶっ壊れちゃった感じの虚無さがあるのだ。

 

 

 

 

ってなわけで前作は「だよね~、人生、そうめでたしめでたしってならないよねえ」感が読んでてあったから、

きっと今作も題材がネットワークビジネスというものに変化しただけの「めでたしめでたしできない話」なのかなって軽く思ってた。

 

 

全然違った

 

 

 

これは人間の業の物語

先に簡単なあらすじを。
 
大衆大学から超大手メーカー「モリシタ」の関連会社「モリシタエンジニアリング」に就職をし、今年で5年目の主人公・ユウキ。
 
仲良くランチを食べ、バカ笑いできる先輩おっさん社員も2人いて、給料もまぁ年齢の割にそこそこで、仙台から上京して自由が丘で優雅な一人暮らししてて、行きつけのお洒落バー的なところもできて、大抵勤めている会社名を言えば周囲の人は賞賛を送ってくれる。鼻高々でそこそこの日々。
 
しかし、そんなユウキのそれなりの日々にも暗雲がたちはじめる。親会社モリシタの経営難。それに従う大規模なリストラ。そんな中、嫁と子どもと新築ローンを抱えていた先輩おっさんその1(ハゲ)が、人員整理で僻地九州工場へ「島流し」後、自主退職をするように勧告をされる。
 
徐々に迫る人員削減の波に危機感を感じ、転職活動に勤しむユウキだったが、上手くいかない。
 
TOEIC600点ですけど、実際に英語を用いた取引を行った実績はありますか?
 
展示会で5%の利益を向上させたとおっしゃっていましたが、具体的にどのような取り組みをどのような意図でおこなったのですか?
 
 
 
 
これまでそれなりにこなしてきたと思っていた社会人生活だったが、結局自分は何もスキルを得ることができなかったのではないかと焦燥感に駆られていく。
おまけにハゲおっさんの後釜としてやってきた上司がウザネチネチくそ野郎。
結構グレーめの「ご指導」を受ける日々。
 
徐々に追い詰められていくユウキに一本の電話が。
 
「すごいんだよっ、すごいの。俺の話なんか聞かなくていいから、明日ちょっとだけ時間もらえない?(中略)アメリカからすごい人が来てて。会えることになったんだよ。ね、すごいの本当に」
 
それは、卒業以来まったく交流のなかった大学の冴えない同級生からの突然の呼び出しであった………
 
 
 
時系列をわかりやすく説明するために若干いじったけど、だいたいまあこんな感じ。
 
新庄さんだし、こんなあらすじだし、この時点でもう暗黒のラストしか見えない。
 
ご想像の通り、ユウキは同級生から勧められたネットワークビジネス会社「ウルトリア」の会員となり、
 
搾取され、子会員を得るために強欲ドSデブBBAに体を売り、強引な勧誘により会社での立場をなくし、ヤケになって退職し、一時だけ金を稼ぎ、高価な装飾品を買い、のちにあっけなく子会員に寝返られ、金を失い、転落し、そして転落しきった先で友人の手により「再生」される。
 
前半はひたすらユウキがネットワークビジネス企業「ウルトリア」と出会い、懐疑し、懐柔され、染まり、落ちるまでをイヤーーーーな感じで描いている。
何が嫌かって、とにかくネットワークビジネス関連の描写がシビアで、えげつない。
定期的に開かれる会員による会合の場面とか、「成績優秀者」への表彰式の場面とか、徐々に徐々にこれまでの人間関係を象徴する場所やコミュニティを追い出されていく感じとか、にっちもさっちもいかなくなってまったく見知らぬ人にビジネス勧誘をし始めちゃう場面とか。
 
そんなことが中盤の170ページくらいまで続くので、正直、ボロボロになりながらも親友に救われた時は「きっとこれから先もなんかあるんだろうな」とは思いつつも「ホッとする」
 
なんだ、よかったじゃんめでたしめでたしだって。
 
そんなわけないのにね!
 
 
ユウキが背負う業とは何か
 
親友に救われたユウキは、再就職先を見つけ新たな生活をスタートさせるが、その生活にも暗雲が立ち込める。
 
これから先言っちゃうと完全にネタバレになってしまうので自粛。(だから絶対本読んで!)
 
しかしながら、結末まで読んで、ユウキに破滅?(とも言い切れないのがこの小説のすごいところなんだけど、とにかく一般的に考えるとどう考えても破滅なので、そういうことにしておく)をもたらした「一つの業」に気づかされた。
 
それは「自己の不安や不満の解決の糸口を自分以外の存在に見つけてもらおうとする弱さ」である。
もっと言えば、「自分の人生の救いを他者に求めてしまう弱さ」とも言い換えることができるであろう。
 
 そもそも、この物語はなぜ始まったのか。
 
それは主人公ユウキが「今手にしているそこそこの生活環境」を会社の経営状況の悪化によって剥奪されそうになっ(て不安感を抱い)たことがきっかけである。
そうでなければ、ユウキだって、卒業してから一度も会っていない、特に仲良くもなく、どこか気が弱くて、服の着こなしもダサくて、(自分と比べて)就活に失敗した面白みがなく冴えない同級生の言葉なんて聞く耳を持たなかったことであろう。
 
しかしながら、仮に経営状況が悪化しなかったとしても、遅かれ早かれ彼は(一般的な視点でみた)破滅の道を突き進んでいく気がしてならない。
なぜなら、ユウキにとっての「そこそこの生活環境」という価値観は、非常に相対的で他者志向なものさしにより図られた不安定なものであるからだ。
 
 
「そこそこ面白い話をしてくれる先輩社員に、仲良くしてもらっている」
 
「無名企業の同世代と比較して、給料が高い」
 
「仙台と比較して、発展した都心にほど近い、みんながお洒落だと評価している、自由が丘に一人暮らし」
 
「自分のことを持ち上げてくれる、感じのいいママのいる、大人なら誰しもたしなみとしてもつ行きつけの店を持っている」
 
「就職先を言うと他人が称賛をしてくれる」
 
「若くして市長に立候補するような能力の高い親友がいる」
 
「しかしその親友は身体障碍者であり、その点では自分よりも劣っている」
 
 
この状況をあらわす言葉、すべてに主語は必要ない。
「ユウキは」「俺は」が必要ないのだ。
 
 
人生、あるいは自分にとっての「そこそこの生活」をはじめとした、自己の根幹を支える、価値観の基準設定に他者志向を用いるとどうなるのだろう。
 
その基準に沿った「人生」や「生活」に暗雲が立ち込め、剥奪されそうになった時にも、他者にすがり、救いを求めるほかないのだ。おそらく。
なぜなら、自分の人生・生活に対する満足を測るものさしがないのとおなじように、人生の暗雲を抜け出す基準も剥奪を逃れたかどうかの判断するための、自分の中のものさしがないのだから。
 
だからユウキは「ウルトリア」の会員の甘言に心をときめかせ、会合で表彰されるとどうしようもなく高揚し、そしてまたその高揚をもとめて道を突き進んでいくのだ。
 
 
弱い人間だな、もっと自分を持って、自律的に生きろよ。
読んだ人の中にはそのような感想を持つ人がいるかもしれないし、劇中でもユウキに対してそのような感情を抱いていた人物がいたかもしれない。
しかしどうだろうか。
 
 
私たちはネットワークビジネスというものを、一般的に悪だと思っている。
 
それは、このビジネスが、既存の人間関係を破壊し、個人の信用を失墜させ、ビジネスに失敗した場合は負債を抱えさせるからだ。
 
しかしそれは「常識」というものさしで測ったネットワークビジネスの一面に過ぎない。
 
では私たちの「常識」ってどこからやってきたのだろう。
あなたの「常識」って、あなた一人で形成したものですか?違いますよね。
必ずその形成には他者が関わったはずなのである。
そして、人は、一度「常識」を手に入れてしまうと、この世のすべてのことはその「常識」に合っているか・あっていないかで善悪・良し悪しの判断をつけることが出来るとおもいこんでしまう。
 
そして、時には自分の人生や、生活状況をその「常識」当てはめてみてこう思うのだ。
「常識的に考えて、そろそろ結婚、でも相手がいない。やばい、不安だ」
「常識的に考えて、この年齢だったらこれくらいの給料ほしい。不満だ。」
 
「常識」は私たちが持つ一番身近な他者志向的なものさしだ。
・・・・って、あれ?なんか、デジャブじゃない?
 
 
このように胸に手を当てて考えてみれば、私たちはユウキの業を一方的に愚かだとみくびることが出来ないのだ、出来るはずがないのだ。
 
 そうやって、読者が自分の中にいるユウキだったり、心の奥底にある「業」の種のようなものに対峙した時、この小説は一層その重さ・エグさをマシマシするのである。
 
 
 
 

しかし破滅が救いになることもある

と、それっぽいことを書いてみたが、
私はこの話のキモは、破滅の先の先まで行きついたユウキが終盤にみせる「信じられないほどの吹っ切れ具合」であると思っている。
 
本当キレッキレすぎて、え?おま誰、誰おま状態だよ。特に255ページ以降とか。
え~~~なんか、ユウキ、やれば出来る子じゃ~~~~~ん感がすごい。
 
そんでもって、こうも思う。このユウキは最高に主体的で、自律的で、自身に満ち溢れていて、「何者」かになりきれている、と。
 
 
 
社会的にはアウトかもしれませんが、私はなにこれ(ユウキにとっては)最高のハッピーエンドじゃんって思った。
 
 
 
 
 
しかしながら、ユウキはこれから先「他者に救いを求める」とはまた異なる
新たな業を背負っていくのだろうから、やっぱ人生ってのは世知辛いわって思ったよ。
 
 
おしまい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

サケ・ノミマクル

ここ半月ほど、14時くらいから1時間ほど一気に酒をあおぎ

(ワインボトル半分と自家製梅酒ロック×2がいつものルーティーン)

気を失うように寝て、19時くらいに起き、用意された晩御飯を食べ、小説や散文をひたすら書き、酒を飲み、24時くらいにインスタントラーメンを夜食として食べ、空が白ばんて来た深夜3~4時くらいにさすがにやべえと寝落ちする日々が続いている。

 

ちなみにこの文章も氷結ロング缶を10分で飲み干したテンションのまま書いている。

端的に言って最高な気分だ。最高にハイってやつである。

 

こういう酒LOVE、酒ズッ友生活を続けているとどうなるのか。

端的に言って、現在、私は日常生活をまともに遅れていない。

 

まず、朝、起きることが出来ない。

 

風呂にはいらないまま寝るので、朝ぎりぎりに起きれたとしても外に出れるコンディションでないから(むしろ出て行ったら小汚すぎて公害レベル)

予定ドタキャンして引きこもる

 

引きこもっているとそんな自分が嫌になるから家にある酒を14時くらいから飲む

(なんで決まり切って14時からなのかと言えば、スッキリ→PON→ヒルナンデスというよく見てる日テレ黄金ラインが途切れてふっと我に返ってしまう魔の刻であるからである。ミヤネ屋は嫌いだ。)

 

酒を飲んだことによってひと時だけ訪れるサイコーの自分とサイコーに美しいこの世界への圧倒的感謝。

耳元のイヤホンからは爆音の倉橋ヨエコ

♪戻れるな~ら~もっとおお~もっとおお~賢く生きてただろう~~~

それに浸りながら、私は寝る、というか気を失う。最近はそれの繰り返しだ。

 

 

 

 圧倒的生産性のない毎日だ。貴重な時間をドブに捨てまくる、浪費しまくり。

ワイン味わい尽くしまくりである。

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就活の説明会はキャンセルアンドキャンセル。

面接はチキってキャンセルできないから参加はするものの、当然シビ滅裂な受け答えしかできない。そんな受け答えが嫌になって、面接帰りにまた酒買って、飲む。

それの繰り返しだ。繰り返しだ。

 

レ・ミゼラブルのフォンテーヌ母さんは「私の人生こんなんじゃなかった」と泣きながら歌っていたけど、ほんとまじ、それなである。

 

私の人生、こんなじゃなかった。

私の人生、まんま父をなぞっている。

 

ビールとウィスキーがワインと梅酒

矢沢永吉倉橋ヨエコ

それぞれ変わっただけだ。

 

インスタントラーメン深夜ドカ食いに関してはまったく一緒だしね。

 

 

 

レ・ミゼラブルの邦題は「悲惨な人々」であったと聞く。

私って悲惨なのかなあ?父さんって悲惨だったのかなあ?

どう思う?教えてよ。

はてな村の高学歴で圧倒的社会強者のみんな~~~~~~~~

 

つい今しがた送られてきた第一志望の最終選考の結果を告げるお祈りメールを見つめながら、酔いがさめたら、もう一杯飲もうと考えている。

 

 

 

 

私の「彼」

私は異性と親密な関係になったことがないのでわかりかねるけれど、でもきっと愛憎いりまじるというのはこういう感情なのだろうなとは思っている。

 

彼は三人きょうだいの末っ子として生まれた。

上には姉が二人。おしとやかで体が弱いが頭の良い長姉と、活発でこれまた頭の良い次姉に続いて生まれた待望の男の子であった。彼の父は息子の誕生を大層喜んで、自身の名前から一文字とった猛々しい名前をつけた。

 

名前負けなのかはたまた名前勝ちなのか。彼はとても健やかに、可愛らしく成長していった。彼の一家が居を構えていた土地は一応は首都圏と言える場所にあったものの、当時はさかのぼること半世紀前の話である。

まだ開発が進まず、葦のおおいしげる野っぱらと畑と田んぼばかり広がるのどかな郊外。郊外といっても、今とは違ってジャスコも、イオンも、しまむらユニクロもGUもない。そこで、可愛い顔をして元お針子の母お手製の綺麗な洒落た服に身を包んでいた彼は、ちょっとしたご近所のアイドルであった。

 

田園調布のおぼっちゃまみたいだね」

 

とご近所で言われるたびに、彼は照れ笑いを浮かべていたらしい。

 

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彼の父は、とある技術を持った「お役人さん」であった。

腕がよく、生真面目で、頑固で、仕事に妥協をしなかったので、あれもこれもと仕事を任されて、かなりの激務をしていたらしい。繁忙期になるとひと月の内、一日しか休みもないこともざらにあった。だから彼は、父親が家を空ける間、女兄弟二人と母と父方の祖母という、女所帯の中のちょっとした家長を任されていた。

とはいうものの、この「家長」はもっぱら彼の「自称」であり、この「お役目」を彼が得意げに口に出そうものならば、口の達者な姉たちから袋叩きにされてべそをかいていたというのだから面白く、そしていじらしい。

 

激務続きの彼の父であったが、それでもたまの休みには今でいう家族サービスを怠らなかった。生真面目で頑固だけれど、変なところで臆病だった彼の父は、車の運転免許を取ることをしなかったために一家は徒歩、あるいは開通したばかりの私鉄を乗り継いで、色々なところに赴いたという。

しかし行く場所と言えば、尾瀬だとか古墳だとか山だとか、今のナウヤングたちは見向きもしないような場所である。でもそんな場所に彼ら一家は、おにぎりとお弁当と水筒をぶら下げて、時には仲の良い近所の子どもも連れだって、わいわいがやがや賑やかな遠足に興じたらしい。

遠足一団では、彼はもっぱら「水筒係」に立候補し、任務を全うしていた。どんな「お役目」なのか?なんてことはない、一団の最後尾で皆で飲む用の大きな水筒を下げて歩き、自分の飲みたいときにそれを飲み、飲みまくり、飲みすぎ、そして休憩時に姉たちに怒られるというご立派なお役目である。

 

時が経ち、小学生になると彼は野球に夢中になった。

入った少年野球チームでは足が速くて、運動神経もそこそこよかったので、ピッチャーを任された。

チームの監督の息子を差し置いて試合で登板させてもらっていたものの、試合のここ一番というところでは必ず息子と交代させられたらしい。よくチームメイトに大量の差し入れを渡しに応援に来ていた彼の母は、その大人の事情による交代劇を見るたびに非常に悔しい思いをしたという。

見るに見かねて「あんたそれでいいの?」とある時聞いてみたところ、彼は首を振って「ううん、いいんだよ、いいんだ」と答えたらしい。彼はそういう子どもだった。

 

中学でも野球バカとして過ごした後、彼は苛烈な受験戦争を潜り抜け、浪人をすることなく、なんとか学区で2番目くらいに頭の良い公立校に滑り込んだ。

本当に、なんとか滑り込んだ有様であったのにも関わらず、彼は高校でサッカーの魅力に取りつかれ、野球バカからサッカー馬鹿に鞍替えをした。

寝ても覚めても寝ても覚めても覚めてもサッカーサッカーサッカー・・・・。

本当にサッカーしかしなかったらしい。滑り込んだのにサッカーしかしていなかったので、成績は味噌っかすだった。

でも馬鹿になるほどやりこんだだけあって、彼のサッカー部は県ベスト○位とかまでいくような結果を残せた。あほみたいに練習して、練習終わりに部員がぞろぞろと自転車に乗って彼の家までやってきて、麦茶をもらって、おしゃべりをして、帰る。そしてごくたまに、初めてできた可愛い彼女とデートをする。そんな生活をしていたという。

 

そんな有様であったから、彼は進路を決める際に担任から「体育大学にいったほうがいいんじゃないか」と言われた。

 

今思えば、おそらくここが彼の人生の分岐点であったのではないかと思う。

 

でも誰かの人生の分岐点なんて、立っているその時には知る由もない。本人も、周りも、気がついたら、振り返ってみたら、「あの時は」となるのがオチである。

 

詳しい経緯はわからないが、彼は体育大学に進学せず、彼の父と同じ「技術」をもった「お役人」になるための進学の道を選択した。

 

 

進学の道は険しいものだった。なにせ、3年間をサッカー馬鹿として浪費してしまったのである。付け加えて、今とは比べ物にならないほどの青年の人数の多さ、異常な競争率。

挙句彼の父はこう言った。「大学は絶対に国公立でなければだめだ」

 

先に述べた優秀な姉たちの影響だった。身体の弱い長姉は入院生活の間を縫って専門をでて就職したものの、健康そのものだった次姉はストレートで旧帝大に受かってしまっていた。

彼の父は学校に2時間自転車をこいで通っていたという東北のど田舎出の苦学生であったから、学歴にたいする執着が強かった。自身が私立大にしかいけなかったというコンプレックスを、子どもの進学で晴らそうとしていたのだ。

 

次姉はそれを乗り越えられたけれど、彼はなかなかそれを乗り越えることが出来なかった。現役の受験では私立しか受からなかった。一浪をした。

 

彼の母は彼の父に抗議した。いさかいが起きた。でも彼は「頑張る」といって聞かなかった。一浪後、受験をしたが結果は変わらなかった。私立だけ。もう一浪した。

 

二浪中、彼は心と身体を病んでしまった。不眠症、そしてEDになってしまったのだ。

 

まじでもう、ボロボロであった。三度目の大学受験、やっぱり私立にしか受からなかった。彼の父はもう何も言わなかった。そうして彼は3流私大に進学をすることとなった。

 

しかし鶏頭となるもという言葉よろしく、彼はおかれた場所で咲こうとした。

学部を卒業し、同大学の院へ進学。そしてそこを首席で卒業した。

大きな紙に太く立派な字で書かれた賞状。誰に何を言われようとも、彼の血と汗と涙と挫折と劣等感をぐずぐずに煮込んで作られた魂の結晶である。

 

 

 

私も彼の結晶を見たことがある。

 

それは螺鈿の飾りがついた一等立派な額縁に入れられて、父の部屋の一番目立つ場所に常に飾ってあった。とある資格の認定証と肩並べて誇らしげに飾られていたそれ。

はて、隣に飾ってあった資格はなんの資格だったっけ?もう父の部屋を整理してから随分とたってしまった。もうどうしても思い出すことができない。

 

 

 

 

ふと、自他を問わず、人の一生について思いをはせるたびに、私はとても物悲しくて、やるせなくて、どうしようもない気持ちになる。

 

それは白黒写真の中にいる「田園調布の坊ちゃん」のつぶらな瞳や、立派な額縁の螺鈿模様や、酒に溺れて酔っぱらってくだを巻いて、「長姉」、否、「私のおば」や「祖父」や「祖母」の悪口をいう父の姿を思い返すときの感情と似ている。

たくさんのなぜ?どうして?に私の気持ちは押しつぶされそうになる。

 

あの坊ちゃんが、なぜ父になったのだろう。

優しい子どもがすり減ってすり減って、すり減った「ダメな」大人になったにすぎないのだろうか。

 

ダメって何?私の父はダメだったの?

 

愛のある幼少期、好きなことに夢中になった学童期、恋に進路に思い悩んだ思春期、挫折を乗り越え何者かになろうとした青年期。

 

人生の様々な局所を能力や愛情や知恵や努力で懸命に乗り越えたとして、乗り越えられたとして、その先に一体なにがあるというのだろう。

 

同期が続々と管理職になっていく中、アル中で無職になる自分

 

「うんこ製造機なんだよ死ね」と実の娘にののしられる老いた自分

 

薬品臭い終末病棟の黄ばんだ天井

 

鼻から摂取するどろどろのチューブ食

 

すり減った先がこの末路。そう思うと私は叫びだしたくなって、泣き出したくなって、もういもしない相手に謝って、許してもらおうとして、嫌になって、絶望して、そして死にたくなる。

 

父に対する愛憎は、恋愛のそれではなく、人や人生や世界に対する愛憎に似ている。

 

なぜ?どうして?を投げかけても、帰ってくるのは理不尽さと謎とやるせなさだけ。

 

なぜ生きるの?生きるのって辛くてくるしいのに?なぜ生きるの?ねえ、生きるのが素敵って言ってよ、証明してよ、だって私死にたくないもん、死ぬのは怖いよ。

 

死人に口はなく、迷い人を救いたもう神も口を開かず、そしていくら喚こうとこの世はだんまりを決め込んいる。

 

私はそんな彼と彼らを呪ったり恨んだりたまには愛したりしながら、1日1日、自分自身をすり減らして過ごしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

心理学部卒の就職最前線①未来の同胞に告ぐ、我らの前に道はない

4月から大学生になったみなさん、その中でも心理学部という物好きな学問を専攻したみなさん、ご入学おめでとうございます。

 

さて、突然ですが、皆さんはなぜ文学部でも国際学部でも法学部でも経済学部でも経営学部でも商学部でも哲学部でもなく心理学部を選んだのでしょう?

 

最初から強い意志を持ち、院進学と臨床心理士(今度から公認心理師になりますが)資格取得を念頭に進路を決定した人以外の本音はこうなのではないでしょうか。

 

「自分は絶対に文系しか進めそうにない」

「経済・経営・商学部絶対数学つかうでしょ。ムリムリ、まじで数学から逃げたい。」

「かといって、文学部もなあ。教員になるつもりはないしじゃあ就活するかってなるけど、文学部だとまじで詰みそう・・・」

「哲学部はなんか、闇深そう。就活は・・・・だし、かといって院進して修士・博士まで取るの?取れるの?てか取れるまで自殺とかせずに生きてけるの?」

「狙ってる偏差値群の大学の法学部偏差値高杉ワロタwwwwwwwwwwww」

「自分のような陰キャがキラキラ国際学部に行こうものなら・・・・・」

 

このような葛藤の元、なんか心理学部だったら

「なんとなく、数学から逃げれそう

「なんとなく、在学中に資格とか取得できそうかも、んでそれが就活で役立つかも」

「なんとなく文学部や哲学部より『大学でなに勉強してるか』が客観的に分かりやすそうだろう」

「なんとなく、そこまでキラキラしてなくて、かといってすごい闇が深いわけでもない類友が集ってきそう」

「心理学って楽しそう」

 

「なんとなく、将来は心理学で学んだことを活かした職(多分安定してる職)に就けるといいな」

 

 

とあたりをつけて、入学をされてきたのではないでしょうか。

 

この考え、現在心理学部4回生、就活真っ最中ナウの私の立場から言わせていただきますと、

 

その「なんとなく」すべて、甘い!!!!!!!!!

そのままただ時間が過ぎていけば、就活の時になって地獄を見る目になるぞ!!!!

 

というわけで今シリーズは、今春心理学部に入学し、院進学をせず就職を漠然と考えている18のヤングマン&ウーマンに対して21のBBAが発破をかけるスタンスで進んで行きたいと思います。

 

心理学を4年間学んで、私たちは何者になるつもりだったの?

 先述した心理学部の「なんとなく在学中に資格とれそう感」と「なんとなく将来は心理学を活かした職に就けそう感」。

正直これはまったくのマボロシイ~です。

はい。でもほら、まあね。進路をすすんじゃったことはもう、過ぎたこと。仕方ないのです。

問題はなぜ私たちはその幻を信じて進路を決定してしまったのか、ということでしょう。

 

思うに、それは心理学を活かした(活かしているように見えるだけも含む)職業・収入方法が私たちの身近に多く存在しているからなのです。

 

★ほにゃららカウンセラー

(スクールカウンセラー産業カウンセラー,恋愛カウンセラー,家族カウンセラー等挙げればきりがない。だって一部を除き名乗ったもん勝ちだもんね)

★セラピスト

★メンタリスト

★精神科医

 

 

私たちはその職業あるいは収入方法で自活している人たちを見て、「ああ自分も心理学部で学べばあの人たちと同じ何者かになれるんだ」と錯覚をしてしまうのです。そして、学部での四年間の学びのその先に、彼らと同じようなキャリアの道筋が見えているつもりになっている・・・いや、なっていたのです。うっわー無知ってコアイネ!

OH、ギルティ!

 

じゃあ皆さんや私が「心理学を学んだらこの人みたいになれそうだな~」を思っているだろう人を以下にて順々に挙げていくとしましょう。言っときますけどぜーーーーーったい彼らにはなれないですからね。さあっ!きばっていこうぜ!

 

もしかしたら私はこうなれるのではないか人その①

メンタリスト daigo

 

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 一番うつりが良いなって写真引っ張ってきました。最近結婚したウィッシュじゃないほうの人です。

 

最近は少しテレビで見かけることは減りましたが、一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いでテレビに出まくっていましたよね。「心理学=心を読むすごい学問」みたいなイメージをエンターテイメントを交えながら社会へ流布していった立役者?第一人者だと私は勝手に思ってます。

だから大抵初対面の人に我々が「大学で心理学やってます」というと「あ~心読めるんでしょ~」ってくだりになるのです。

 

端正な顔立ちと知的さ溢れる振る舞いで芸能人の心理を次々読みまくるミステリアスな男、daigo!いやーかっくいいですねえ。そこにシビれる!あこがれるゥ

私たちも心理学を学んだら、心が読めるようになるのかも☆って思っちゃいますよね。

 

ですが結論から言いますと、そこらへんの学部で心理学を学んだところで彼のようには絶対になれません。

 

彼は心理学を大学で学んでたとか心理学者とか、そういった人じゃありません。特に国家資格も認定に試験があるわけでもない、「メンタリスト」(自称)。そう言うとめっっっちゃ嘘くせ~ですが、なんやかんや彼はKO大学の理工学部出身。そう、私たちがしっぽを巻いて逃げ出した理数を極めしエリートです。

経歴を真実と仮定した上で、ここから先は私の憶測です。彼は「心理学」に関しては大学在学~卒業までの間にちょちょちょい~っと学んだ程度にすぎないでしょう。そのちょちょいと学んだ心理学の知識とこれまで培ってきた知識・観察眼・論理的思考を総動員して「人の心を読んでいる」のです。はい、もうおわかりですね?

 

だからdaigoさんって要は

ただの人心掌握に長けた、かなり頭のいい、容姿がある程度整っている人

です。

 

彼がここまで心を読める(ようにみえるのは)ただ単に心理学の知識がというよりは、彼自身の能力・才能・資質によるところが多いです。てかまじでほとんどそれ。

説明が面倒くさいのであとは各自でwikiなり公式サイトのプロフィールでも見といてください。

 

 もしかしたら私はこうなれるのではないか人その②

ドラマDr.倫太郎より

精神科医 日野倫太郎

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 堺雅人、かっこいいですよね~

半沢直樹以降ずっとでずっぱりだったけど、最近は落ち着いてきたでしょうか。

いい仕事して、綺麗な人と結婚もして、もう人生の脂、のりまくりですよね。

 

さ、無駄話はこれくらいにして、端的に一言いいます。

 

精神科医って、医者だかんな???

 

 

 もしかしたら私はこうなれるのではないか人その③

 

 月9ドラマ ラヴソングより

産業カウンセラー(臨床心理士) 神代広平(ましゃ)

 

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 結婚報道後のましゃロスで視聴率大変みたいですね。

私、笑点小遊三師匠のましゃネタがすげー好きなので、ましゃにはなんか頑張ってほしいなって個人的に思ってます。ま、それはさておくとして

 

産業カウンセラー臨床心理士にしかなれません

そして臨床心理士になるためには指定大学院にて資格の認定試験を受けなければいけません。

(ちなみにみなさんご存じスクールカウンセラーも同様です)

 

と、まあ具体例として挙がるのはこんなもんでしょうか。ちなみにこの3人を挙げたのは理由があって、我々が勘違いしがちな「学部で学んだ心理学の知識活かせるかも職」3つのパターンの典型例であったからです。

 

パターン1:「一見心理学部での知識が活かせそうに見えるが、実質心理学部かとか関係なく、本人の能力や口の上手さに依存する職・収入方法」

例:メンタリスト、臨床心理士の資格を持たない者が名乗る「ほにゃららカウンセラー」すべて

ぶっちゃけこれらはすべて「自称」なんです。いわば、誰でも名乗れてしまうお金を頂いて仕事をもらうにはそれなりの「説得力」が必要ってこと。じゃあこの説得力はどーすりゃいいのって、そりゃあ「話術」一択です。

 

話術によって自称をどこまで「価値」にかえられるか。そしてその価値に金を払ってもらうのか。

見えないサービス、価値が一見わかりにくいサービスを提供するといういみではコンサルと仕組みが似ているかもしれませんね。

 

パターン2:「そもそもその職につきたいなら心理学部に来てる場合じゃねぇ職」

例:精神科医、養護教諭福祉系職種

その名の通りです。無知は罪。

 

パターン3:「心理学部の学びを活かせるが、院までいかなければつけない職」

例:臨床心理士、企業カウンセラー、スクールカウンセラー

専門職って甘くないんですね。

 

はい。どうでしょう。心理学部で一般就職を考えていた皆さま、そろそろ悪寒がしてきたのではないでしょうか。

 

心理学部卒が、心理学を学んできたということだけで有利になれる職はこの日本にないです。

つまり、就活戦争を特に「心理学部としての武器」のないままに臨むということになるでしょう。

営業、事務、経理、IT・・・・

想像してみてください。

経済学部だったらマーケティング、商学部だったら簿記資格アッピール、経営学部だったら経営学検定、国際学部だったら御社のグローバル化に貢献できますアッピール・・・

彼らの場合は、学部で今学んでいることが社会に出た時・会社で業務をする際すぐに結びつく知識・スキルばかりです。

つまり、周りの人はいくつも「武器」を持てる環境で勉強をしているということ。

 

そんな中で私たちは「持てる者」である彼らと戦い、勝利して、内定をもぎ取らなければなりません。うわ!ぞっとしますね。

 

 

 

幸い、公務員には心理学部卒で受験可能な心理職もいくつかあるので(児童相談所の職員とかね)、気になる人は受けてみるのも手だと思います。

 

しかし諸事情によりそれでも就職を考える皆さまもう後のない3回生

時間や過去の決断を悔いても仕方ありません。

 

では次にこれからでも間に合うこと、また私たちが4年間で学ぶ専門知識という資源に焦点を当ててみることにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

メンヘラコンテンツ地獄の門

 

 
 
溢れ出る自意識をインターネットで公開し、コンテンツ化する人たちがいる。
 
ブロガーやツイッタラー、ユーチューバー、インスタグラマー。
 
多様な媒体から常に提供される各コンテンツたち。その持ち味(個性)もやはり多様である。
 
自意識を披露するだけで注目と賞賛を得られ、なおかつ広告費で金を儲けることができるなんて。
 
まさしく現代のアメリカンドリームのようなウマイ話であるが、そこは1億総情報化社会。今時小学生でもスマホを持てるこの世の中で、時代の流行を察知し、他者にウケるコンテンツを提供し続け、人気を獲得するのは至難の技である。
しかしながら、一方で時代の流行に流されることなく一定の割合で支持されるウマいコンテンツがある。
 

それが、メンヘラ芸コンテンツだ。

 
 
メンヘラ芸コンテンツ?と頭にハテナマークを浮かべた方、残念ながらあなたインターネッツの迷い羊である。このページに来たのは何かの間違いだから、即刻このページを閉じて、このブログのことを忘れて、いつものようにミックスチャンネルなりInstagramなりFacebookなり、元いた牧場に帰っていいねを搾り出す作業に戻っていただきたい。
 
 
 
私が今回話をしたいのは、『メンヘラ芸の門を叩く者は、一切の希望を捨てよ』という話である。
 
 
 
 
 

⒈メンヘラ芸が生み出された土壌:「一昔前のインターネット」

 
もともとインターネットというものは、メンヘラと親和性の高い弱い者の溜まり場であった。
 
学校のクラスで例えるなら、誰とも私的な会話をせず、昼休みの時間には無表情でボーッとするか机に突っ伏しているかしかしていなかったあいつ。教室の隅で埃と水だけ飲んで生きていたようなあの子。例え保健室に行ったとしても、誰にも気にもとめられずにいた私やあなた。ちょっとしたことやちょっとしない大事に、すぐ気を病んでいた私たち。
 
そんな現実ではクソみたいな我らが、ゆるーい仲間意識をもって「おまいら」、「ぽまいら」と馴れ合うことが許されたのがインターネッツである。
 
当時のインターネット世界は良くも悪くも顔が見えなかった。実名は伏せられて、発言は明朝体やゴシック体で形作られた活字が踊るのみ。
 
現実ではダサ眼鏡猫背の脂ぎったにきび面で吃る人間もインターネット上では「ふつう」になることが簡単にできたのだ。
 
ここでは「2人組作って〜」と言われることもなければ、文化祭の準備で手持ち無沙汰になって内臓がぎゅっとつかまれる様な痛みを感じることもないし、体育祭をこっそり抜け出して図書館にこもり、遠くから聞こえてくる歓声を心臓をドキドキさせながら聞かなくても良いのである。
 
彼ら、我らにとってこんな居心地の良い場所はない。
 
そんな「ふつうからのはみ出し者」との親和性の高さという土壌は、新たなコンテンツ・アイコンを生み出すことになった。
 
それが、今は亡き伝説のネットメンヘラアイドル、南条あやさんだ。
 
 
 
 

2.メンヘラ芸界のレジェンド、南条あやさん

 
南条あやさんは90年代後半に彗星のようにあらわれて消えたメンヘラ系ネットアイドルである。
 
 
 
小学校でいじめと不登校を経験。中学生からリストカットを開始し、ODにハマる。高校生になると大学病院の精神科の閉鎖病棟への入院を経験。
 
そんな彼女は高校生の頃、薬事ライターの町田あかねさんが運営していたウェブサイト「町田あかねのおクスリ研修所」に薬物使用の体験談メールを送ったのがキッカケで、町田さんのウェブサイトに「南条あやの部屋」という日記連載を持つことになる。
 
日記は1998年5月〜1999年3月という彼女が高校を卒業する年の3月まで続けられ、そして同月の末に彼女はODが原因で亡くなった。
 
明らかに「ふつう」じゃない彼女であったが、彼女にはさらに「ふつうじゃない」才能があった。
 
それは類い稀ない文才である。
 
この一文を見てほしい。
 
私は学年で有名人。切れ者として。人によってどこが切れているのか、認識の違いはあると思いますが。(笑)Nanjyo 1999.1.17
 
とんでもなく皮肉を効かせたブラックジョークだ。
どことなく、切れ者(リストカッター)である自分も、その周りにいるふつうの人、すべてをバカにしているように感じられる。
 
メンヘラである自分もその周りのあれこれも痛快に笑い飛ばすという姿勢は、当時のインターネット住人たちにとって非常に衝撃的であっただろう。
 
 
 
察するにそれまで、メンヘラというものは、普通でないということは隠すべき影の対象であった。
 
リストカットするなんて、
ODするなんて、
不登校なんて、
クラスに溶け込めないなんて、
友達がいないなんて、
2人組であまるなんて、
 
言わずともメンヘラ・普通じゃない弱い者がとる行動をさす主語のあとには、必ず「恥ずかしい」がはいる。
 
人並みでない。人様と違う。私だけ、私だけ、恥ずかしい。
 
そんな時代に南条さんは自身の普通じゃないメンヘラさをシニカルにツッコみ、そして笑いに昇華させた。
 
これは本当に目からウロコの偉業である。
 
彼女によって、メンヘラは、普通ではないということは、1つのコンテンツに、1つの「芸」に確立されたのである。
 
 
 
 

3.SNS時代の南条あや、「メンヘラ神」

 
時代は流れ、情報技術は進歩し、インターネット社会は大きく変化した。
 
一般人(ふつうの人)へのブログ浸透、前略プロフの流行、mixiなどの会員制SNSの発展、学校裏サイトの興亡、動画サイトの一般化(私が中学生の頃はニコニコ動画YouTubeを見ていると言おうものなら、、どうなったか想像するのも恐ろしい)。
 
そしてひたすら自意識を発信できるTwitterや、自身のおしゃれライフをアピールできるInstagram、実名登録・顔出しで自身の社会的優位性を大声を出して宣伝できるFacebookの普及を通じて、ついにインターネットは、私たちのインターネッツは、「ふつうの人」のものとなってしまった。
 
インターネッツはメンヘラたちの居心地の良い底辺空間から、いかに自分の優位性、有能さ、人望の厚さをアピールするキラキラ空間へとその姿を変えた。
 
インターネッツ上のメンヘラたちが、毎日流れてくる「ふつうの人」たちのキラキラアピールに瀕死の重傷を負う中、颯爽と救いの手を伸ばす女神がいた。
 
それが現代のメンヘラコンテンツのパイオニアである「メンヘラ神」さんである。
 
 
メンヘラ神さんはTwitter、ツイキャス、はてなブログを中心に活躍された21世紀のメンヘラアイコンである。
 
 
@Q_sai__ (Twitterの遺跡アカウント)
 
悲しいことに、彼女も南条さんと同じく、この世にもういない。
メンヘラ神さんの死に関しては彼女の死そのものが1つの刑事事件に発展していることから、言及は避ける。
 
が、ひとつ言いたいのは私は一個人として、彼女の書く文章が、とても好きである。
 
 
私たちメンヘラ特有の自意識の強さ。そこから生まれる苦しみ。普通になりたいという欲求と葛藤。自己愛に満ちた理想像と、ほんとうの自分とのギャップ。開きすぎたギャップによる必要以上の自己卑下。そしてそれらの根底に流れる自己否定と自己嫌悪。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心(この言葉めちゃメンヘラ表しててすごい好きです。多用してしまいます)
 
メンヘラ神さんはそれらをすべて笑いとして、コンテンツとして昇華させていた。
 
ODしちゃうアタシ、吃っちゃうアタシ、コミュ障なアタシ、性依存なアタシ、コミュニティをクラッシュさせちゃうアタシ、愛されたいアタシ、愛されたいアタシ。
 
そんなアタシを愛してよ誰か!と叫ぶ姿はあまりにも痛々しくて、見覚えがあって、身につまされて、そしてすごく笑えるのだ。
 
キラキラ輝くタイムラインにふっと彼女が浮かんでくるだけで、自分がキラキラプールの中で潜水して息を止めていたことを思い出して、プハーッと息を吐いて、吸う。
 
そうして私たちはまた息を止めて、日常をなんとかやり過ごすことができていたのだった。
 
しかしながら彼女は常にメンヘラをコンテンツとすることに情熱を注ぎ過ぎていたきらいがあった。
 
彼女のツイートより抜粋
 
友達に「メンヘラ芸みたいな危うい面白さってのは不安定だったり欠陥があったりするところからしか生まれないから、彼氏できて進級できてゼミ合格してハーブやめたお前はもうオモシロポイント0なワケ、オワコンなんだよオワコン」って言われて、思い出したかのように慌てて手首切ってる
 
今は亡きメンヘラ神さんであるが、私は声を大にして言いたい。あなたという仲間が幸せになることを、普通でなくてもそれなりに生きていくことを、どうして咎めたり「オワコン」とがっかりしたり、失望したりするであろうか?
 
きっと私と同じことを思うメンヘラたち、メンヘラ予備軍たちは多くいるはずだ。
 
それだけメンヘラ神の心の中にいた「コンテンツとしてのメンヘラ」は一部の人間たちにとっては普遍性があり、共感性があり、身近で親近感のある半身のような存在であった。
 
つまり、先述した「メンヘラ芸」が一部の割合で支持される理由とは、インターネッツにいる一部の人間たちにとって、「メンヘラ芸」は自身の一部であり、痛烈な共感を覚えるコンテンツとなりやすいからということである。
 
 
 

4.北条かや氏の「コンテンツ」について

 
炎上以前から、私は北条かや氏のコンテンツそのものについて疑問を抱いていた。
 
「この人は一体何をコンテンツとして発信しているのだろう」
 
騒動の元となった著作「こじらせ女子の日常」をはじめ「整形した女は幸せになっているのか」など、発信している作品は一見して「こちら側(メンヘラ側)」と親和性の高いものが多い。
 
ファン向けに配信している有料のnoteでは、精神薬の話や通院の話などをよくしていると聞く。なるほど、彼女は実際に診断を受けた正真正銘の「メンヘラ」なのであろう。
 
かといって、だからといって、南条あやさんやメンヘラ神さんのように私は彼女が「自分の仲間である」という共感性や親近感を抱くことが出来なかった。
 
それは所々で彼女の根底にある「女としての自己愛の強さ」を感じてしまうからである。
 
 
この自己愛の強さをどこから感じるのかをあげていくともう本当キリがないので、一番最近の氏のブログの文章を紹介したいと思う。
 
炎上騒動後、同級生のY氏(たぶん男性)にスタバに誘われた北条氏は、そこで「叩いてくる奴はお前が気になって仕方ないんだ」的なわりとあるあるな感じで慰めてもらったという。
 
そのくだりでの一文。
 
「ちなみに私は、フラペチーノのなかで一番カロリーが低いマンゴー味を頼んだ。お腹が冷たくなったけど、美味しかった。」
 
そしてY氏と飲み物を飲みながら夫婦漫才のような掛け合いをした後
 
「Yは恋人でもなければ、友達でもない。ただ、どこにでもついてきてくれるので、地元仲間として結構、心強い気がする。」
 
 
 
これらの文をみて、私はあーーなんでそういうことを言ってしまうんだろう、やっぱり何をコンテンツとしたいのか分からないなこの人はと思ってしまった。
 
 
カロリーが低いものを飲んでいると特筆すること、ピンチの時にはいつでも駆けつけてくれる恋人未満の男がいるという一文を付け加えること、これはもはや「キラキラふつう人」がリアル・ネット問わず常用するマウンティングと捉えられても、致し方ない表現である。
 
マウンティング、これはメンヘラたちに対するコンテンツを運営する上で、1番やってはいけないことだ。
 
なぜなら、メンヘラたちは現実世界ですでにマウンティングを受けまくり、ボッコボッコにされ、満身創痍であるからだ。何が楽しくてネット世界でぽまいらから攻撃をされなければいけないのだ。ブルータスお前もかも大概にしてほしい。
 
思うに、北条氏がここまで炎上したのはインターネッツ上で生きながらえている何百、何千という私たちメンヘラが「俺たちのメンヘラをてめぇのコンテンツとして語るんじゃねぇ!」という決死の防衛戦をおこしたからではないかと考える。
 
兎にも角にも、インターネッツ上のメンヘラから「あなたはこちらの世界の人間ではない」と言われてしまった北条氏に残された道はきっと限られているだろう。すげー余計なお世話だが。
 
「こじらせ」系のメンヘラ・繊細コンテンツを封印して、新たなコンテンツを作っていくか
 
従来のコンテンツをインターネット上ではなく、ファンの見る一部のインターネッツで提供するか
 
2つに1つであろう。
 
 
 
メンヘラコンテンツとは、いきはヨイヨイ〜帰りはコワイを体現するコンテンツである。
 
持ち上げられるのも容易いコンテンツであるが、その分飲み込まれ、取り込まれ、足元をすくわれ、転落するのもあっけない。
 
 
 
 
メンヘラコンテンツの門を叩く者は一切の希望を捨てよ
 
 
私はこのことを声を大にして、言いたいのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こちらから南条さんの記事引用しました
 
 
 
 追記(7/7)
思うところあって、タイトルをかえた。
約3ヶ月前ほどに書いたこの記事が、ここ数日で多くの人の目にとまっていることに驚きを隠せずにいる。
もし万が一、この拙筆が北条氏本人の目にとまるようなことがあれば、私は1つだけ伝えたいことがある。

私は何も「あなたはメンヘラ神になれない=あなたはかわいそうぶりっこで自殺なんてきっとしないだろう」ということを言いたくて、あなたを攻撃したくてこの記事を書いたのではない。 
色々論争は起きているが、あなたが実際に「生きにくい、つらい」と感じるならば、それがあなたにとっての真実だと思うし、その「真実」や「辛さ」を発信すること・表現することにはなんの罪もない。

ただ、インターネッツのメンヘラーたちに向けて、メンヘラコンテンツを提供して、双方がwin-winになるためにはどうしたらいいんだろうということをこの記事では伝えたかった。



とにかく北条かやさん、死なないでください。
メンヘラコンテンツも私もアンチも2chも無視して、もっと図々しく強かに美しく生きていってください。以上、ささやかな祈りです。