斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

二子新地駅徒歩13分築19年2K家賃8万2階建てアパートの一室で金曜夜22時に飲みほすちょっとぬるいアサヒスーパードライ500mlの味

いつか訪れてほしい、自分にとっての「幸福」の話をする。

 

その「幸福」というやつは、おそらく凡庸で垢抜けなくてすり減っていくだけの暮らしの中にある。

私は社会人5年目で、そんなに仕事が「デキる」わけではなくて、得意先への応対はだいぶマシにできるようになってきたけど、まだ業界とか商材の知識は完璧なわけでもなくて、でもそろそろ「労働市場における自分の価値の低さ」に焦りを覚え始めていて、「なんか資格とらなきゃなーーーーー」なんて思いながら毎日田園都市線に揺られながら1時間かけて出勤して、働いて、月に20~40時間くらいは残業をして、疲れたなーーーってなって帰宅するっていう暮らしをずっと送っている。

 

残業時間の長さにもよるけど、月の手取りは15万からよくて17万くらい。そこから携帯代1万引いて家賃代の4万引くと残り10万~12万くらい。そのお金をどうにかやりくりしてごまかしごまかし月初から給料日までをしのいでいる。

 

1Kなら会社から半額家賃補助がでてハッピーハッピーなのに、なんで2Kのアパートに住むのかというと、なんと、一緒に暮らす人がいるからである。なんと、それは、今お付き合いをしている人である。

冒頭の「いつか訪れてほしい」というふんわりワードにたがわぬふんわりドリーマー脳であることは重々わかっているが、これは「わたしのかんがえたさいきょうのゆめ」の話だからきにしない。し、続けます。

 

話を戻す。

 

なんせ私はわりとしょっぱめの給料しか稼げないので、生活はまあまあキツキツだ。

水道光熱費8000円と日用品などの雑費3000円インターネット利用代5000円は二人で折半。食事はできるだけ自炊にしようねといいつつもなかなか作れてはいない。朝は問答無用で日曜日にまとめて炊いて保管しておいた冷凍ご飯をチンして納豆ご飯にして食べて、昼は気力で毎日会社におにぎりを作ってもっていくけど、夜はスーパーの総菜に頼る日々なので、なんだかんだ月3万くらいかかってしまう。

なので、毎月2万3000円の生活費を出しながら、「これ一人暮らしだったらどうなってたんだよコエ―――――よ」と内心びくつき、仮に同居が解消されたら金銭面的におとなしく実家に出戻るしかないなあなんてことを、26歳の私はいつもいつも考えている。

 

残りの7万も消えるのはあっけない。

まずそのうちの3万はいざという時の出費に備えて貯金に回す。すると残りは4万円。

付き合いで3000~5000円の食事や飲み会に2・3回顔を出す。すると残りは2万円。

 

 

その2万円はたいてい毎月

①化粧品一点(~3000円)買い足し

②そのシーズンの服を一着買う(~7000円)

③美容院で髪をカットする(~5000円)

④ちょっとおいしいごはん(~5000円)を彼と食べに行く

 

くらいしたら簡単になくなってしまう。

 

ふとした時に開くSNSでは、就活で上手いこといった同級生の余裕に溢れたゴリゴリの可分所得エリートたちによる華々しい圧倒的貴族な生活であふれていて、馴染みのない高級店のディナーだとか、すんげーファビュラスなアクセサリーつけてお洋服をきこなす垢抜けた笑顔だとか、有給で行った海外旅行の写真が回転ずしみたいに流れては消えて、また流れてくる。

 

「これが圧倒的上級国民・・・・・・経済を回す側の人間たち・・・・っ!!!」

 

キラキラ輝く圧倒的貴族の方々は、圧倒的財力によって「大人をきちんと履修」していて、外食と言えば餃子の王将、アクセサリーは7年前に友達から誕生日にもらったマリクワのネックレス一択、服はセールで買ったVIS、旅行は数年に一回国内2泊3日のにんげんである私は「園庭ですずらん組のみんなが軽々とうんていをこなすのに、自分一人だけできずにただ立たずむしかなかった幼稚園のおひるやすみ」よろしく毎度途方にくれてしょんぼりしてしまう。

 

 

 

そんなある月の第四金曜日、月末で忙しくいつもより遅めに帰宅。速攻ジャージに着替えて化粧を落とし、ご飯食べようかなーって買ってきたSEIYUのおつとめ品の酢豚のタッパを開けようとするけどなんかだるくて、無印良品で買ったベットでゴロゴロしながらスマホいじってSNSのぞいたら気持ちがしょんぼりしてきて、えーーーんとなってたら、タイミングよく彼が帰ってくる。(何度も言いますがこれは私の「ゆめのはなし」です)

 

おかえりーつかれたねえってお互い言って、そしたら彼の手にレジ袋が下がってるのが見えて、「LINEみた?酢豚かってきたよ。ご飯まだチンしてないごめん、ご飯食べよう、おなかすいてる?」っていうと、「おなかすいた」って返ってきて、そっかーって言うと、「ビール買ってきたよ」って袋からサッポロの500ml缶とアサヒスーパードライ500ml缶を出される。

 

「わーーーーーーーーーーい」って私は喜んで、アサヒスーパードライを手に取って、彼のお気に入りのかわいい15オンスタンブラーに注いで、でも私は注ぐのが苦手で泡まみれになって全部を注ぎきることができなくて、しょうがないなーという顔をされて、バツの悪さを感じながら、ビールを飲む。

 

駅前のSEIYUから家まで歩いてくる間にビールはすこしぬるくなってて、ぬるいねーといいながら、なんだかんだいっておいしいなあと思いながら、ビールを飲む。

 

多分私は、それでも生きていていいんだなあって思いながらビール飲んで、飲み干して、「あー多分これが私にとっての幸福なんだろうなーーー」って思いながら、にこにこする。

 

 

大人になりきれなくて、向上心も能力もさほどなくて、お金を稼げる側の人間ではなくて、何者でもない私にとって、それがいつか訪れてほしい、「私にとっての幸福」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(三行まとめ)

とりあえず

新社会人になったら

仕事と納税と貯金を頑張りたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心理学部卒の就職最前線②お気持ちよりも金を産め

 

前回からだいぶ間が空いてしまいました。

 

ttt414141.hatenablog.com

 

学部1年生は大学に慣れ

2年生は「え~~~~~成人式の振袖どうしよ~~」と悩み出し

 

そして3年生の一部の人たち(外資系企業やテレビ業界など選考の早い企業志望の人)は就職活動を始めたころと思います。

 

前回の記事のときは私も就活の真っ只中で、ちょっと気が狂っていたこともあって異様にテンション高い感じの文章になってしまってますね。すごい読みにくい。

先日ついに就職先(中小商社)が決まったこともあって。今、まあ、ある程度は腹をくくっているので。たんたんと書いていきたいと思います。たんたんとね。

 

今回は心理学がもつ「価値」ってなんなの?ってことと、

企業は心理学に何を求めてるの?ってことの2点に関する私なりに考えた意見を述べてこうと思います。

 

心理学部3年次のみんな、これ読んだらリクナビマイナビに登録するんだゾ☆

 

 

心理学は金にならない

この見出しは半分あっていて、半分間違っています。

というのも、

心理学というのは「何かほかの分野の知識と掛け合わせて初めて、莫大な価値を持つ学問」であるからです。

なんのこっちゃ?とおもったボーイズ&ガールズのために、説明をいたします。

 

例えば、心理学の大活躍領域に「臨床現場でのカウンセリング」があります。

主に病院・クリニックなどの医療施設において、心理学を学んだ臨床心理士精神疾患の患者さんに対して話を聞く、あるいは治療を試みる。世間一般の人が想像するのはそんな姿だと思いますし、その姿は大方あっていると思います。

 

しかしながら、通院をしている一般的な精神疾患の患者さんが「カウンセリング」のみで寛解を試みるというのは非常に、非常にまれなケースです。大抵の方はなにかしらの「薬事療法」も同時に受けていらっしゃいます。

これは当たり前のことなんですが、精神のほとんどの機能(思考する・推論する・喜怒哀楽などの感情等々)って頭、脳に内蔵されています。

んで、脳の中にあるこれらの機能が上手く働いていないってのが精神疾患の要因の一つです。じゃあそれをどうすんのっていったら、その機能が上手くまわるように働きかける薬を投入するゾってのが、狐憑きも狼男も信じなくなった科学世紀21のJAPANが行ってる方針なのです。

 

と、いうことなのですがしかし、ここでポイントとなってくるのが「精神疾患の患者の治療には薬品が必要」という点です。

というのも、臨床心理士には薬物を「処方」する資格はありません。

じゃあ、誰が「処方」をするのか―精神科医です。

 

もうお判りでしょうか。

心理学がもっとも価値を持ち、必要とされる「臨床カウンセリング」の分野においても、心理士は「医学の力=薬の力」を借りないと患者を治療し、寛解させることができないのです。

 

医学×心理学という異なる分野の知識が合わさってはじめて、一人の精神疾患の患者さんが寛解できるかもしれないという可能性が、つまり社会的な価値・意義が生まれるのです。

 

ちなみに、カウンセリング場面の他の例として「学校現場におけるスクールカウンセリング」というのもあります。ここでは、学校に月数回の非常勤(まれに常勤)をするスクールカウンセラー(臨床心理士免許取得)が生徒を相手にカウンセリングを行う場です。

この場で薬等が処方させることはない(処方されるような重い子だったら外部の治療できる施設に取り次ぐ)のですが、

それでも学校の先生との連携を図る必要はあります。(教育(学)×心理学)

なぜなら、該当生徒がおかれている対人環境を正しく把握・査定するときには「生徒のクラスの担任」からの聞き取りが不可欠ですし、よりきめ細やかで継続的な心理的な支援をしようと考えれば、「月に数回しか来れないカウンセラー」より「身近な先生」が動いた方がいいのは明白だからです。

 

 

 

長くなりましたが、つまるところ、心理学というのは、心理学以外の学問と掛け合わせるてはじめて大きな価値・意義を産む学問だという事です。

この法則は上記のような「病院内での世界」にとどまらず私たちの生活のすぐそばでも使われています。

 

経済学×心理学で超ヒット商品を産むためのマーケティングをする、だとか

経営学×心理学で全社員が心酔するようなカリスマ社長になる、だとか

スポーツ×心理学で歴代最高の記録を打ち立てる、とか

工学×心理学でどんなひとにも好感をもたれるデザインの製品をつくる

だとか

 

きりないです。んで、ここですっげーーーー心理学部生にとって激ツラな事実が浮かび上がってきます。

 

「経済学とか諸学問を極めた人が、後から心理学学んで、それを既存の経済学等の知識とドッキングさせた方がパフォーマンスよくない?????」

 

そうなんですよ。

例えば、すっごい大企業とかだったら、「めっちゃ売れる新商品作りたい」と思ったとして、経済学の権威と心理学の権威二人連れて来て、金払って「よろしく頼みますでおま」ってゴマすると思います。

が、それがフッツーのそこら辺の企業だったら、経済学がそこそこできる別に権威ではない人に土下座して、「お願いします、アッ、心理学の勉強もしといてください、手当はだしますゥ」ってなると思うんですよね。

だってそうすれば、人は一人で済むし、いろいろな面で圧倒的にコスパがいでしょ。

 

どんな企業だって、お金儲けがしたい。そしてお金儲けに必要なのが徹底的なコストカットとコストパフォーマンスの向上です。あれ、じゃあわたしたちって、わたしたちって・・・・・・

え??????????

 

あれれ?????心理学部生のみんなーーーーー息してる??????

 

 

それでもあなたは私がほしいの?

息してますか皆さん。私は書いていて内臓が痛くなってきました。

そんなこんなですが、かといって、心理学部卒の我らの就活に全くの希望がないというわけではありません。

新卒採用をする企業っていうのはようは「金を産む(できたら優秀な)人材」がほしくて採用活動を行っています。

だから、それでも心理学部生は「金を産める」ことをアピールできればいいのです。

傾聴が出来なくても、DSM-5を知らなくても、「金を産める」ことが示せれば、あららびっくり大企業に入って安定&ゲットマネーライフだって夢じゃありません。

 

「ゲットマネーするために心理学部に来たんじゃない」ってほとんどの学部生は憤るでしょうが、ほら、うちらってさ、ここまでさ、大学生するのにさ、いくらかかったと思ってるん?ほら・・・・はは・・・・・言ってみ?な?言ってみよ?な、ゲットマネーして自分の生活のケツは自分で拭いて、親には孝行しようぜ、ってことで続けます。

 

私が思う心理学部の「金産むアピールポイントは二つ」

 

企業がほしがる心理学の知識①統計

学部に入って最初に皆さん思ったはず。

「えっ???????心理学部って統計やるの????????」って

 

心理統計は諸々の知能検査、あるいは心理尺度の回答結果を分析・考察するために非常にマストな分野です。

 

心理学部じゃない人とか、これから心理学考えているひとに雑に説明すると、

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こういう心理テスト的なのあるでしょ。これが心理尺度っていいます。

これは質問考えた人が、例えばこの場合は「ユニークな人ってこんなかんじかなー」って考えてつくってるんですけど、

ただ考えているだけじゃなくて、(それだと少女漫画雑誌の後ろの方の「心理占い」と同レベルになってしまう)

この質問をつくった後、めっちゃたくさんの人に解答してもらってその結果を統計学的にうまいこと(以下略)分析して、はじめて「この質問でユニークな人がどうかがわかる!」って裏とってから世に出してるんですよね。

え、ユニークかどうか知ってどうなるの?って感じですが、尺度にはいろいろなバリエーションがあって、「対人不安」とか「意思決定の傾向」についてを調べる尺度があったりします。

 

finnegans-tavern.com

 

意思決定の傾向はこっち

ci.nii.ac.jp

 

モノによってはめちゃめちゃ有益だし有名だし、ぜっったい一回くらいはみなさん何かしらの心理尺度に回答しているとおもいます。

 

その「上手いこと分析」のために使われるのが心理統計だったりします。

まあそれだけじゃなくて、その、他にもいろいろ使われるんですが、学部生はだいたい尺度分析のためだけの統計に4年間をささげます。

心理統計やってない大学の心理学部ってあるのかな、ってくらい心理統計は超ベリベリマストそんな学問です。

 

 

よくわかる心理統計 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

よくわかる心理統計 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

 

 ↑お世話になっております・・・・・・

 

じゃあ、この学問がどんな企業で金になるのかというと

帝〇データバンクとかの信用調査会社、あるいは、新卒中途問わず人材採用時の適正テストの有名どころ、玉手箱とかつくってる日本エスえいほにゃららとかです。

 

前者は顧客である企業の分析や査定に、後者はもうあのテスト自体つくるのに心理統計の知識をまるまる応用できます。

 

しかしちなみに、「人の心が好き~~~多くの人のお気持ちを傾聴したいなあ~~~」みたいなマインドの人がここを受けると双方不利益を伴った地獄絵図が発生するのでお気をつけあそばせな。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと話が長くなりそうなので、また次回。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

麻婆茄子つくった

実家暮らし21歳、初めて麻婆茄子をつくった。

 

 

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泊まった友達の家でこれが出てきたら「あっ、こいつのお母さん、料理別にそんなに上手じゃないな」と察しつつも、でも普通にそこまで抵抗もなく食べれてしまうレベルの、可もなく不可もない感じの出来栄えだ。

パッと見、なんでこんなに見た目がビミョーなのかなあと思ったけど、たぶん具材の大きさをバラバラに切ってしまったからだろう。不揃いな感じがいかにも「慣れてない感」を絶妙に演出している。

 

ちなみにおとなしくクックドゥを使ったので、味つけに関しては全く問題がなかった。

でも、この麻婆茄子、すごく致命的な欠点を抱えていて、それはなにかというと

 

 

ニンジンがもう、信じられないくらいめちゃめちゃかたい

 

 

尋常じゃないくらいかたい。え?????????生???????????

ってくらいかたい。咀嚼するときガリゴリ鳴るんじゃないかってくらいかたい。

 

でも、私としては、懸命に箱の裏の調理手順にそってつくったつもりである。

調理手順は以下の通りだ。

 

①茄子(中サイズ3本程度350g)を縦に6~8等分する。ニンジン(4分の1本)は短冊切り、ピーマン(中3個)は縦に6等分に切る。

②熱したフライパンに油を大さじ3杯入れ、茄子に焼き目がつくまで炒める。焼き目がついたら、ニンジン・ピーマンを入れ、野菜に色がついたらフライパンから炒めた野菜をあげる。(この行程は中火~弱火で行うこと)

③あげたフライパンにひき肉を投入する。火が通ったら、一旦火を止め、素を加えて再度火をつける。そのあとすぐに野菜類を投入して手早く炒める。(この行程は中火で行うこと)

④完成

 

なんで手順にしたがったのにこんなことになってしまったんだと思ったけど、考えていくうちに、自分が調理の際に陥ったとあるポイントに気がついた。

 

 

料理を作る際に必要なのは「共通言語の習得」である

調理をしていく際、正直、パニックに陥るシーンが何度かあった。


そのひとつが、冒頭の具材を切るシーンである。

 

 

例えば茄子。

 

縦に6~8等分切るとしか書いていなかったけど、さすがに私でも「等分にする前にヘタを切らなきゃいけない」ということはわかっている。

 

でも問題はそのヘタの切り方である。

 

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「ヘタを切るということ」は知っているのだが、「ヘタを切るということが具体的に茄子の端からどのくらいを切り落とすことなのか」ということがよくわからない。

 

茎につながっていた部分はもちろん食べれないし、元「ガク」?であったヘタ部分も食べれないことはもちろんわかっている。じゃあ図で示したように、くるん矢印で示したところを切ってしまうのも、可食部を多く捨ててしまうような気がする。

かといって、ヘタが茄子の実からどれだけはがれやすいのかもよくわからないので、直線矢印で切って全然ヘタが実からはがれなかったらどうしようと思ってしまう。

 

結局、二つの矢印の間位を切って、母親に「もっと茎に近いところで切れるよ」と言われてしまった。

 

 

 

パニックになったもうひとつが、野菜を炒めるシーンである。

 

 

「茄子に焼き目がつくまで炒める」

 

これの意味が全く分からなかった。

「焼き目」と言ってもいろいろある。

切った茄子の縁がほんのりシナッてして色が変わるらいなのか、茄子の切り口全体がこんがり色づくくらいなのか、全く分からない。


じゃあ普段の麻婆茄子を思い出せと言われても、普段食べる時に麻婆茄子の見た目に特に意識を注いでいないので、いまいちピンとこない。だから、わりと、混乱した。



しかし茄子はまだ良かった。



問題はニンジンとピーマンである。


「野菜に色がつくまで炒める」



色がつくまで????????????

わけがわからない。

そもそも、すでに野菜に色はついている。

綺麗なオレンジと綺麗な緑色だ。


それがさらに色づくとはどういうことなの?

???????焦げ目がつく、焼き目がつくとは、また違うの??????なんなの????????わけがわからない?????????????


そんな感じで頭にハテナを浮かべた結果、私は結果的に野菜を早くフライパンからあげてしまい、激カタにんじん麻婆茄子を錬成してしまったのである。









思えばこれまで、料理において、似たような体験はいくつもしてきた。


照りが出るまで煮詰めるの「照り」がよくわからなかったり、

根菜・葉物・肉を雑多に入れた炒め物の「全体に火が通ったら」がよくわからなかったり、

「水気がなくなってきたら」がわからなかったり


思うに、料理にまつわる語句たちは日本語なのだけど、私にはそれらが日本語じゃないみたいに感じることがある。


そういった時、私は、とんでもなく、置いてけぼりをくらった気がして、そんでもってとてつもなく恥ずかしくなったりする。


特に、他の人がスイスイと料理をこなしている姿を見ると、余計にその恥ずかしさが増して、増した結果、居た堪れなくなる。自分自身が、居た堪れなくなるのだ。


みんな、あのよくわからない説明や語句て理解してちゃんと作れているのに、私だけ理解できずに作れないなんて、ちょっと、ヤバイんじゃないだろうか。そんな考えで頭の中がいっぱいになって、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーとなってしまって。なってしまうので、私はできるだけ料理をすることを避けている。



いや、料理だけではない。他にも、そういった「共通言語を理解できないから」という理由で避けていること、逃げてきたことはたくさんある。


カラオケ

クラスの打ち上げ

チームスポーツ競技全般

恋バナ

集団行動

その場にいない誰かの陰口大会

そんなに親しくない人との飲み会

同窓会



たくさんたくさんある。


どれもその場での適切な振る舞いだとか、その場でやりとりされる曖昧な言語をきちんと聞きとって、理解して、っていう、そういうことが、私はあんまりできない。



歳をとるにつれて、そういう理解できない自分を取り繕うための小手先の方法ばかり頭に詰め込んで、誤魔化すのだけ、取り繕うのだけがうまくなってしまった。


好かれるためのコミュニケーション方法

人の心をつかむ話し方50

あなたを幸せに導く引き寄せの法則


そんな感じの自己啓発もどきみたいなコミュニケーション本に依存して、読みふけって、それで本当は出来てないのに、私はみんなの共通言語を理解して、マスターした気になって、使いこなせてるふりをして日々をやり過ごしている。




誰でも美味しく麻婆茄子を作るためのクックドゥーは市販されてるけども、

誰からも好かれるLINEを返すためのテンプレートツールは残念ながらまだ発売されていない。



時代の進歩とテクノロジーの進化を祈りながら、そのうち自分の人生をオートモードで過ごせないもんかなあ、なんて、そんなアホみたいなことを考える、夏である。

















 

 

 

持たざる者へのまなざし

「持つ」というのは非常に便利な日本語だ。

その目的語となれる「モノ」の守備範囲たるや、あっと驚くほど、広い。

 

 

「人を魅了する美貌を持っている」

「五体満足で健康な肉体を持っている」

「都内に戸建てを持っている」

「定職を持っている」

「専門資格を持っている」

「大学院卒という学歴を持っている」

「とある技能を有している」

「高いコミュニケーション力を持っている」

「高い運動能力をもっている」

「趣味を持っている」

「親を持っている」

「兄弟を持っている」

「多くの友人を持っている」

「恋人・配偶者を持っている」

 

思いつくものをざっと挙げてみてもこれだけある。

 

好ましい外見的特徴、好ましい身体の状態、資産、住居、社会的地位、自己のアイデンティティ、収入、能力、生きがい、やすらぎ、環境、居場所、対人関係。

 

それぞれラベリングをしてみると、こんな感じか。

あまりの多様さに目が回ってしまいそうだ。

けれども、挙げた上記っていうのは、「客観的に観測出来うるもの」であるから、まだ分かりやすい。

これらに加えて、「自分に対して自信を持っている」だとか、「将来に対して希望を持っている」といった他人の目に見えない、本人の中にある観念的なモノだって、立派な「持つ」の目的語になりえるだろう。際限がない。

そんな風に考えてみると、もしかしたら「私たちが持つことのできる‘‘モノ’’」とは果てしがないのではないかという錯覚に陥りそうになる。

 

 

けど、良くも悪くも、私たちは人間だ。

スーパーの特売詰め放題で得ることのできるニンジンの本数がだいたい決まっているように、ポケモンが覚えることの出来る技が4つしかないように、一人の人間が持つことのできる「モノ」にはある程度の限りがある。

 

それは、

 

持つことに生来的な要素が必要なモノがあったり

(人種とか容姿とか運動神経とか)

 

 

何かを得るためには何かを失わなければならない場合があったり

(時給とか)

 

モノには二面性があったり

(ニートを「‘‘職’’を持っていない」とみるか「‘‘時間的自由’’を持っている」とみるか)

 

 自分一人の努力ではどうにもこうにも得ることができないモノが存在

(人望とか運とか1日はどうあがいても24時間とか)

 

するからだ。

 

 なあーんにも制約がなくて、なんでも持ってるスーパーマン(orウーマン)なんて二次元の世界か、あるいは上流国民のなかのさらに僅かな上澄み層にしか存在しないだろう。

(私のような小市民は見たことがないけども、「悪魔の証明」ということで・・・・)

 

ほとんどの人、ほとんどの凡人が持てるモノには限りがある。

限りがあるから、「じゃあ」と私たち凡人は、できるだけ上手くやろうとする。

時にこだわり、時にあきらめ、時に誰かから強奪しながら

いつだって限られた中で、「出来るだけいいモノ」を「できるだけ沢山」持とうとする。

新聞に、雑誌に、TVに、映画に、世間話をする知人たちに、同僚に、通っている整体のお兄さんに、法事であった親戚に、居間でくつろぐ家族に、飛び込み営業をかけてきた営業マンに、本に、まとめサイトに、キュレーションサイトに、youtubeに、アルファツイッタラーに、FBに、クラスメイトに、バイト先のあの子に、サークルのあいつらに

 

「これがいい」「あれもいい」「これがいいらしい」「これが素晴らしい」

と煽られながら、それでも自分で吟味して選んでいると思い込んで

自分にとっての最高なモノをたくさんたくさん持つために

それらをカスタムし、追求する。

 

 

最高の車、最高の休暇、最高の同期、最高の仲間、最高の住居、最高のパートナー、最高の家族、最高の仕事、最高の友人、最高の人生、最高な私。

 

 

 

自分で高らかに宣言してしまえば、なんだってモノは「最高」になることはできる。

本当は持っていなくても、嘘ついて、宣言するもいい。言うだけならタダだし、バレなきゃわからない。

 

好きなだけ自分を飾りたてて、好きなだけ自分を発信出来て、好きなだけ好きなモノの情報を集めることの出来る現代において、

最高のモノをたくさん持った「最高キメラ」

「持つ者」になるのは案外、たやすい。

 

 

 

でも、じゃあ私たちがみんな、最高のモノに囲まれて幸せなのかといえば、決してそんなことはない。

 

いちおう、私たちは社会性とか客観性とか、そういうダルいモノも持っているからだ。

だからふとした瞬間に、いとも簡単に「最高ハイ」から目が覚めて、正気を取り戻してしまう。

 

それは深夜のTLでだったり、混雑する電車の中でだったり、職場で入居者からゲボ吐きかけられた時だったり、学校の食堂でよっ友からスルーされたときだったり、隣の奥さんの旦那の年収を知ってしまった井戸端会議でだったり、まるで自分がいないもののようにあつかわれた婚活・合コン会場でだったり、家の廊下に昨晩深夜徘徊した家族のうんこが落ちていてそれを踏んでしまったときだったり、いくらアピールしてもいくらニコニコしても自分のほうには顔を向けず隣に座る東大生のほうしか見ない面接官と対峙する集団面接の場であったり。

 

 

 

最高の容姿をもった最高の自分だと思ってたけど、全然(彼氏・彼女or結婚)できない。最高じゃない。

 

最高の能力と最高の魅力を持った最高の人間だと思っていたけど、全然就職できない。

 

最高の同期と最高の仕事をしているつもりだったけど、あいつに比べて待遇が悪すぎる。最高じゃない。

 

最高の伴侶と最高の結婚をして最高の家庭を築いたつもりだったけど、FBでみた同級生の配偶者の方がルックスがいいし、住んでる場所がいいし、家もきれいな新築だし、子どもも可愛いし、いいねもいっぱいもらっている。最高じゃない。

 

 

 普段は「持っている者」だと思っていた「自分」という存在が揺らいだとき

つまり、自分が「持っていないモノ」をがあると気がついたとき

自分が途方もなく「持たざる者」だと気がついたとき

 

私たちは、怒りや、悲しみや、憎しみや、妬みや、恐れや、恥ずかしさや、情けなさに溺れてしまう。

 

溺れるだけならばまだ良い。

問題は溺れすぎて、溺れすぎて、口から鼻から耳からそういった感情がたくさん入ってきて、息が出来なくなって、身体を、激情に支配されてしまった場合だ。

 

 

 

 

激情というエネルギーをうちへうちへ、自分自身へと向けるのか

 

あるいは外へ外へ、自分以外の世界へと向けるのか

 

 

 

 自分を殺すのか、他者を殺すのか

 

 

この究極の二者択一は、決してフィクションの中だけではなくて、現実でも行われてきているし、いま、どこかでもきっと行われているし、これから先のどこかで行われることになるかもしれない。



どちらも絶対にしません、と言い切れる人が、はたしてこの世の中に幾人いるのだろう。

どちらの二者択一にも絶対に巻き込まれたりしないと言い切れる人が、果たしてこの世の中には幾人いるのだろう。

 

 

 

最近私は本当にわからないことがある。


自分を殺すのか、他人を殺すのか。

 

自分を殺さずにはいられない人

誰かを殺せずにはいられない人

 

そういった選択に向き合っている人とエンカウントした際に、私個人は、果たしてどのような対応をとればいいのだろうか。どんな行動をとればいいのだろうか。

 

そういったことがわからなくて、だからずっと、どうすればいいのかを考えている。



持たざる者を見つめている時、おそらく持たざる者もまたこちらを見つめている。


私が持たざる彼らに出会った時

あるいは私が持たざる者になった時


私は彼らや、自分自身をどんなまなざしで見つめることになるのだろう。

最近はそればかりを考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルピニスト宣言

わたしは、私たちは、日常のあらゆる場面で意思決定を迫られる。

 

「夕飯に何をたべるのか」、「休日はどこへ遊びにいくのか」といった些細なものから、進学、職業選択、結婚といった、人生の転機となる重大なものまで、意思決定の内容の幅は多岐にわたる。

 

これらの意思決定時に、なかなか避けては通れないものがある。

それは「後悔」だ。

 

 

私たちは膨大な意思選択をこなしていく中で、常に納得のいく選択をし、自分の望んだ結果を得られるとは限らない。

 

時には「これでよかったのか」と過去の意思決定を不安に思い、「もっと別の選択肢を選んだ方がよかったのではないか」と決定後の現状を悲観しながら反実仮想を想起することもあるだろうし。  

あるいは、「こんなことをしたら後々後悔してしまうのではないか」と未来を想像して怖気づき、なかなか意思決定に踏み切れないこともあるかもしれない。


 

こうしてみると、後悔とは過去志向的ー未来志向的という相反する面をもった厄介な存在であることがよくわかる。

ちなみに心理学では前者を「経験後悔」、後者は「予期的後悔」と呼ぶのであるが、

わたしはいま、「予期的後悔」の真っ只中にいる。

 

 


近ごろ、自分の下す意思決定にまったく自信も確信も持てずにいた。

内定先の選定から始まって、挙げ句の果てには今日食べる学食のメニューまで。

「転んだ先の後悔」とでもいえばいいだろうか。

 

何をするにも、自分が行うすべての意思決定が、すべて後悔につながってしまうのではないかという疑念が浮んでしまう。さらに疑念に付随して、抑うつ感情が頭を覆い尽くす。めちゃつらい。そんな状態がここのところずっと続いていた。

 

これまで

「(なんか面白そうだから)これ!!!!!!」とイノシシのように意思決定をこなしてきた我が人生であったが、

いい加減意思決定を獣から人間に進化させる必要があるということなのだろうか。と最初は思っていた。いやはや、早く人間になりたーい。闇に紛れて生きたくなーい。なんて、思っていた。

 

進化の必要性をぼちぼちと感じてはいたものの、でもどうにもならなくて、もはやなぜどうにもならないのかもわからなくて、というか、何がわからないのかもわからずにメンがヘラっていたら、友人たちが色々と話を聞いてくれた。

 

 私の友人たちは、それなりに論理的思考ができてそこそこの問題特定能力のある割とまともなメンがヘラってないひとが多い。だから、みんながみんなちゃんとしたアドバイスをくれた。

 

 

優先順位を決めるんだよ

 

自分がどうありたいか、どうなりたいかを考えるんだよ、そっから逆算して決断をしなよ

 

これだったら自分でもやっていけそうだな、自分に合いそうだなと思うものを選んだら。

 

 

 どれもこれもぐう正論だった。それなにも程があった。私はアドバイスをくれるたびにありがとうありがとうその通りだよねと赤ベコのように首を縦に振った。でも決められなかった。決めるのが怖かった。

 

そうだよねそうだよね、わかっちゃいるんだけどね、いや、わかってないのか、わかってないから決めれないのか、いやむしろわかっていることはなんだ、わかってないことはなんだ、てか、わかるってなんだ?

 

友人たちと話せば話すほどに、IQ3くらいの内省と自己理解と問題特定と論理的思考と仮説思考しかできない自分に、心底嫌気がさした。

 

と同時に、彼女らが行ってきた、あるいはこれから行うであろう意思決定の「人間らしさ」が眩しくて眩しくて。「私はこうやって決めてきたよ」と話す姿を赤ベコ猪はただただ目を細めて見つめるしかなかった。

 

 「将来は夫婦間の関係が対等で、居心地の良い家庭をつくりたい。○歳までに結婚して、子どももほしい。そして出産後しばらくブランクがあっても仕事に復帰できるような専門職につきたい、だから私は今この選択をする」

「今自分の家はこのような経済状態。なので早く自立をしたい。経済的に自立することは将来的に考えて悪いことではない。だから私は今、この選択をする」

「母親の生き方を見ていて、資格を持つことの大切さが身に染みた。加えて、自分が何者であるかの証がほしいから、だから私は今、この選択をする」

「自分は能力・体力的にこの程度の仕事が出来そうだ。最低限稼いで生きていければそれでいいし、だから私は今、この選択をする」

 

彼女たちはそれぞれいろいろと抱えていて、でも抱えているなりに前を向いて、足を止めることなく一歩一歩、意思決定をこなしてきていたし、現にこなしていた。それってとってもまぶしくて、きれいだなと、赤ベコのように頷きながら、私はほんとうにそう思った。


 そんな彼女たちと自分の意思決定の差異を比べてみて。彼女たちという人間と私という獣の意思決定の差異について、内省してみて、ここ数日で、ふと気がついたことがある。

 

彼女たちが行う「人間の人生の意思決定」とは、おそらく登山に近しい。 

自分がどこにいるのかがわかっていて、

自分が山に登りたいことがわかっていて、

どの山に登るかを決めていて、

そのための装備を準備していて、

目的地が分っているから道に迷っても、用意したコンパスを使って立て直すことができて、

登っている間も、自分がどこにいるのか、何号目に立っているのか、理解しながら足を進めている。

彼女たちにとっての意思決定とは、山頂という人生の目標やなりたい自分に向かうための一歩一歩だ。大なり小なりの意思決定は登頂のための過程に過ぎない。

 

対して、「私の人生の意思決定」は、おそらく動物の狩りに近しい。

 自分がどこにいるのかわからないけどとりあえずお腹が空いていて、

目の前に美味しそうなもの(面白そうなもの)を見つけたらそれに飛びつき追いかけて、

追いかけて追いかけて、

逃したりたまに捕まえたりして、

そして決着がついた後に周りを見渡してみるともう全然知らないところにいることに気がつき、ふりだしにもどる。


一見、目の前のものは目標に見えるけれど、それは取れたり取れなかったりして、安定はしていない。不安定だ。不安だ。なぜなら山と違って「動くもの」だから。


かといって、「もの」を取れたとしても安心はできない。取るために無我夢中で追いかけるから、方向感覚を失って、今いる場所がわからなくなってしまっているから。だからものを取れてもこう思う。


不安だ。



今いる場所がわからなくて不安だからとりあえず新しく現れた目の前のものに飛びついて、無我夢中で追いかける。繰り返す。驚くほど生産性がない。



おそらく、私の転んだ先の後悔の根源はここにあるのだろう。


不安。


自分が今いる場所がわからなくて、

自分がこれから向かう場所がわからなくて、

自分がどうなりたいのかがわからなくて、

自分の今しか見えなくて、


不安で、不安だから、自分が正しい意思決定をする姿が想像できずにいる。

目指す山が分からないから、歩きすぎて、走りすぎてマメができて、足が潰れたらどうしようかと思っている。マメができたら山小屋で休むこともできるのに、山に登っていないから、山小屋も知らない私は、足が潰れたら終わりだと思っている。



思うに、私は今、まじで人生の岐路的なところに立たされているのだろう。



私は私の山を見つけなければならない。

エベレストでも、富士山でも、高尾山でも、もはやちょっとした峠レベルでもいいのかもしれない。けど、とにかく、とにかく私は私が登る山を見つけなければならない。


狩りをして、生肉食って、口の周りを血で濡らして、えーやっぱちがうーもっとーというのはもうやめる。


私は私の山をみつけます。そして登ります。バックパックしょって、コンパス持って、登ります。


私は、アルピニストになります。




 

全ての人に「布の母」を

読みました。黒子のバスケ脅迫事件の被告人最終意見陳述書。

「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

素晴らしい文章です。本当にすごい。

ある種の人にとって、ずっと心の中に引っかかっていたけど、

言語化できなかったモヤモヤ・不安・不快感・嫌悪感を、非常にロジカルに端的に、例えを交えて分かりやすく論じています。

これを読んだ一部のインターネッツピーポーは親指でスワイプをしながら、あるいはマウスでカーソルを動かしながら、ため息のようなか細い「それな」という音を喉からもらしたことと思います。

 

私は彼の文章を一通り読んでいて、ある心理学の実験を思い出しました。

それはハリー・ハーロー(Harry Harlow, 1905-1981)が行ったアカゲザルの子どもを用いて「愛着」についてを検証した実験です。

 

「布の母」について

 ハローはアカゲザルの赤ちゃんを母親と分離させ一人きりにし、その子の前に二種類の「母親の模型」を設置しました。

 

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右側が針金製で哺乳瓶を付けた模型

左側も針金製なのですが布が巻き付けられている模型です。

 

ハローは当初、アカゲザルの子は針金哺乳瓶模型 に愛着をしめす(=くっついて離れないのでは)と考えてました。

なぜならば、子供が親に愛着を持つのは「自分を養育してくれる存在だから」、つまりいってしまえば「メシを食わせてくれるから」であると仮定していたからです。

 

しかし、実験結果は驚くべきものでした。

まあ、写真見たらわかるわって話ですが。

赤ちゃんザルは始めは針金哺乳瓶に抱き着き、おなか一杯になるまでたらふくミルクを飲んだ後、すぐに布を巻いた模型に抱き着きそこを決して離れなかったのです。

付け加え、赤ちゃんに対して大きな音を立てて恐怖を煽ってみると、必ず赤ちゃんは布の模型(=布の母)にしがみついたといいます。

 

さらに、実験には後日談があって、

この赤ちゃんは実験後親元・仲間のサルたちの元へと戻されるのですが、なかなか集団になじめず、親や仲間に対して問題行動をとってしまったといいます。

攻撃的になったり、関係の構築を回避してしまったのです。

 

この実験が示したことはとても興味深く、そして重いことであると思います。

「だた、メシを食わせるだけが親の役割ではないのではないか」ということです。

「子どもにとっての心地よい接触を与えること」

「子どもが何かあった時の安全基地となること」

 

これらの役割をはたして初めて親は親となりえ、子どもは子どもとして社会的に成長ができるのではないか。この実験はそんな残酷な事実を突きつけているのでしょう。

 

黒子のバスケの人に思うこと

バスケの人は、意見陳述の冒頭でいくつかの「独自用語」を提示・定義付け・解説していましたが、そのなかで特に目をひく語句がありました。それは「安心」です。

氏はこの安心が「社会的存在になるために必要不可欠」な「人間が生きる力の源」とした上で、このように述べています。

 

乳幼児期に両親もしくはそれに該当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。

例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当てをしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。

またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。

 

なじみはあるけど、どこかあいまいな「安心」という概念を本当に的確に表現している名文なので、まるっと引用をしました。

 

文章はこの後、論題は安心を獲得できなかった者がたどる末路、「生ける屍」についての解説と考察になるのですが、私はこの部分を読んでいて、先に述べた「布の母」の実験が頭から離れませんでした。

 

氏に対し、いい歳なんだから全部親のせいにするんじゃねえ、という批判があるようですが、それは違うと私は思います。

実験した子ザルが社会的生活を送りにくくなってしまったこと。そしてこの氏が「生ける屍」になってしまったその背景には、親との愛着関係の不成立という自身で(その当時、養育される立場としては)どうすることもできない因果があります。

 

地球に住んでいると、酸素があって息ができるのが当たり前で特に意識もありがたみも感じませんが、いざ宇宙に出てみれば息を吸うこと、それは死活問題です。

いかに息を吸うか・吸い続けられるかが重視され、価値を持つ宇宙空間と、とくにそれが見向きもされず、価値を持たない地球。地球に住む人は、宇宙で息を吸うということがどれだけ難しくて、どれだけ大変か、知る由もないでしょう。

この関係は氏への批判にもつながる気がします。人は自分が当たり前に持っているものの価値を見くびる傾向があるからです。親のせいばかりにしすぎという人は、「健全な愛着関係を築ける親」を特別なものだと思っていません。だってそれは自分の親だし、友達の親も大そうだから。そんな親、あってあたりまえだから。

彼らにとっては当たり前だからあってもプラスにはならないけど、なかったらマイナスになるでしょう。いや、マイナスどころか「当人の努力不足・能力不足・我侭のために所持していない」というレッテルも貼りかねない。


あなたが我がままいったから親が冷たくしたんじゃないの?

あなたがいい子にしなかったからじゃないの?

そりゃあ親だって人間だから、いい子出来る子の方を可愛がるでしょ?



悲しいです。悲しいですが!「まともな親」のみならす、世の中はそんな当たり前の人たちが当たり前だと思って持っているのものであふれています。平均的年収・平均的学歴・平均的コミュニケーション能力・平均的容姿。

なんで?なんで持ってないの?なんで?

そんな声が聞こえてくる気がします。

ああ最高に世知辛くてギルティですね。

 

だからこそ、だからこそ、氏は得ることができなかった安心を求めたのでしょう。

ちょっと当たり前でなくても、不完全でも、欠けていても、持ってなくても、生きていていい。

たったその言葉がほしかったのです。生きていていい。たった七文字のその言葉を。

 

このクソみたいな世の中のすべての人、能力のある人・ない人、頭のいい人・悪い人、容姿がいい人・悪い人、自信がある人・持てない人、すべての人に安心を。すべての人に布の母を。私は、本当に、そう思えてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに心理学における愛着研究の第一人者がこの方です。

人間における母子間の愛着形成がその後の人間関係にどのような影響を与えるのかということが述べてあり、とてもおもしろい(人によっては読んでて辛いかも)です。

ボウルビイ母子関係入門

ボウルビイ母子関係入門

 

 

 

 

 

生きること、それそのものが「業」(カルマ)なのか 新庄耕『ニューカルマ』感想

 

以下、読書感想文である。

高校生ぶりだぞ、こういう文章書くの。

 

 

新庄耕さんの『ニューカルマ』を読んだ。

 

新庄さんは『狭小邸宅』を拝見して以来すごく惹かれている作家さんである。

そんな新庄さんの新刊がでてると今さら知り、先日購入をした。

 

ハマったきっかけである『狭小邸宅』は、

上司に暴力振るわれ・罵倒され・詰められてた「客を殺せない」三流企業のダメ不動産営業マン松尾(多分慶応出身)が、

ぜってえ売れねえっていわれてた蒲田の狭小邸宅を売ることに成功するんだけど、

評価と羨望と自尊心と給料と引き換えに心の中にあるなにか大切なものを失ってしまってめでたしめでたしできませんでしたって話。

 

私、この「めでたしめでたし、ってなるわけねーだろ」って感じのラストがすごい好きで。

 

突き放しているわけでもなく、かといって必要以上に「ほらあ~これがノルマに詰められた社畜の末路だよお~~~恐ろしいだろう~~~~」とあおるわけでもなく

「ま、これじゃ幸せになれないよね?なんでかはわかんないけど、てか幸せってなんだっけ?」って読者にも問いかけるみたいな、まじで精神ぶっ壊れちゃった感じの虚無さがあるのだ。

 

 

 

 

ってなわけで前作は「だよね~、人生、そうめでたしめでたしってならないよねえ」感が読んでてあったから、

きっと今作も題材がネットワークビジネスというものに変化しただけの「めでたしめでたしできない話」なのかなって軽く思ってた。

 

 

全然違った

 

 

 

これは人間の業の物語

先に簡単なあらすじを。
 
大衆大学から超大手メーカー「モリシタ」の関連会社「モリシタエンジニアリング」に就職をし、今年で5年目の主人公・ユウキ。
 
仲良くランチを食べ、バカ笑いできる先輩おっさん社員も2人いて、給料もまぁ年齢の割にそこそこで、仙台から上京して自由が丘で優雅な一人暮らししてて、行きつけのお洒落バー的なところもできて、大抵勤めている会社名を言えば周囲の人は賞賛を送ってくれる。鼻高々でそこそこの日々。
 
しかし、そんなユウキのそれなりの日々にも暗雲がたちはじめる。親会社モリシタの経営難。それに従う大規模なリストラ。そんな中、嫁と子どもと新築ローンを抱えていた先輩おっさんその1(ハゲ)が、人員整理で僻地九州工場へ「島流し」後、自主退職をするように勧告をされる。
 
徐々に迫る人員削減の波に危機感を感じ、転職活動に勤しむユウキだったが、上手くいかない。
 
TOEIC600点ですけど、実際に英語を用いた取引を行った実績はありますか?
 
展示会で5%の利益を向上させたとおっしゃっていましたが、具体的にどのような取り組みをどのような意図でおこなったのですか?
 
 
 
 
これまでそれなりにこなしてきたと思っていた社会人生活だったが、結局自分は何もスキルを得ることができなかったのではないかと焦燥感に駆られていく。
おまけにハゲおっさんの後釜としてやってきた上司がウザネチネチくそ野郎。
結構グレーめの「ご指導」を受ける日々。
 
徐々に追い詰められていくユウキに一本の電話が。
 
「すごいんだよっ、すごいの。俺の話なんか聞かなくていいから、明日ちょっとだけ時間もらえない?(中略)アメリカからすごい人が来てて。会えることになったんだよ。ね、すごいの本当に」
 
それは、卒業以来まったく交流のなかった大学の冴えない同級生からの突然の呼び出しであった………
 
 
 
時系列をわかりやすく説明するために若干いじったけど、だいたいまあこんな感じ。
 
新庄さんだし、こんなあらすじだし、この時点でもう暗黒のラストしか見えない。
 
ご想像の通り、ユウキは同級生から勧められたネットワークビジネス会社「ウルトリア」の会員となり、
 
搾取され、子会員を得るために強欲ドSデブBBAに体を売り、強引な勧誘により会社での立場をなくし、ヤケになって退職し、一時だけ金を稼ぎ、高価な装飾品を買い、のちにあっけなく子会員に寝返られ、金を失い、転落し、そして転落しきった先で友人の手により「再生」される。
 
前半はひたすらユウキがネットワークビジネス企業「ウルトリア」と出会い、懐疑し、懐柔され、染まり、落ちるまでをイヤーーーーな感じで描いている。
何が嫌かって、とにかくネットワークビジネス関連の描写がシビアで、えげつない。
定期的に開かれる会員による会合の場面とか、「成績優秀者」への表彰式の場面とか、徐々に徐々にこれまでの人間関係を象徴する場所やコミュニティを追い出されていく感じとか、にっちもさっちもいかなくなってまったく見知らぬ人にビジネス勧誘をし始めちゃう場面とか。
 
そんなことが中盤の170ページくらいまで続くので、正直、ボロボロになりながらも親友に救われた時は「きっとこれから先もなんかあるんだろうな」とは思いつつも「ホッとする」
 
なんだ、よかったじゃんめでたしめでたしだって。
 
そんなわけないのにね!
 
 
ユウキが背負う業とは何か
 
親友に救われたユウキは、再就職先を見つけ新たな生活をスタートさせるが、その生活にも暗雲が立ち込める。
 
これから先言っちゃうと完全にネタバレになってしまうので自粛。(だから絶対本読んで!)
 
しかしながら、結末まで読んで、ユウキに破滅?(とも言い切れないのがこの小説のすごいところなんだけど、とにかく一般的に考えるとどう考えても破滅なので、そういうことにしておく)をもたらした「一つの業」に気づかされた。
 
それは「自己の不安や不満の解決の糸口を自分以外の存在に見つけてもらおうとする弱さ」である。
もっと言えば、「自分の人生の救いを他者に求めてしまう弱さ」とも言い換えることができるであろう。
 
 そもそも、この物語はなぜ始まったのか。
 
それは主人公ユウキが「今手にしているそこそこの生活環境」を会社の経営状況の悪化によって剥奪されそうになっ(て不安感を抱い)たことがきっかけである。
そうでなければ、ユウキだって、卒業してから一度も会っていない、特に仲良くもなく、どこか気が弱くて、服の着こなしもダサくて、(自分と比べて)就活に失敗した面白みがなく冴えない同級生の言葉なんて聞く耳を持たなかったことであろう。
 
しかしながら、仮に経営状況が悪化しなかったとしても、遅かれ早かれ彼は(一般的な視点でみた)破滅の道を突き進んでいく気がしてならない。
なぜなら、ユウキにとっての「そこそこの生活環境」という価値観は、非常に相対的で他者志向なものさしにより図られた不安定なものであるからだ。
 
 
「そこそこ面白い話をしてくれる先輩社員に、仲良くしてもらっている」
 
「無名企業の同世代と比較して、給料が高い」
 
「仙台と比較して、発展した都心にほど近い、みんながお洒落だと評価している、自由が丘に一人暮らし」
 
「自分のことを持ち上げてくれる、感じのいいママのいる、大人なら誰しもたしなみとしてもつ行きつけの店を持っている」
 
「就職先を言うと他人が称賛をしてくれる」
 
「若くして市長に立候補するような能力の高い親友がいる」
 
「しかしその親友は身体障碍者であり、その点では自分よりも劣っている」
 
 
この状況をあらわす言葉、すべてに主語は必要ない。
「ユウキは」「俺は」が必要ないのだ。
 
 
人生、あるいは自分にとっての「そこそこの生活」をはじめとした、自己の根幹を支える、価値観の基準設定に他者志向を用いるとどうなるのだろう。
 
その基準に沿った「人生」や「生活」に暗雲が立ち込め、剥奪されそうになった時にも、他者にすがり、救いを求めるほかないのだ。おそらく。
なぜなら、自分の人生・生活に対する満足を測るものさしがないのとおなじように、人生の暗雲を抜け出す基準も剥奪を逃れたかどうかの判断するための、自分の中のものさしがないのだから。
 
だからユウキは「ウルトリア」の会員の甘言に心をときめかせ、会合で表彰されるとどうしようもなく高揚し、そしてまたその高揚をもとめて道を突き進んでいくのだ。
 
 
弱い人間だな、もっと自分を持って、自律的に生きろよ。
読んだ人の中にはそのような感想を持つ人がいるかもしれないし、劇中でもユウキに対してそのような感情を抱いていた人物がいたかもしれない。
しかしどうだろうか。
 
 
私たちはネットワークビジネスというものを、一般的に悪だと思っている。
 
それは、このビジネスが、既存の人間関係を破壊し、個人の信用を失墜させ、ビジネスに失敗した場合は負債を抱えさせるからだ。
 
しかしそれは「常識」というものさしで測ったネットワークビジネスの一面に過ぎない。
 
では私たちの「常識」ってどこからやってきたのだろう。
あなたの「常識」って、あなた一人で形成したものですか?違いますよね。
必ずその形成には他者が関わったはずなのである。
そして、人は、一度「常識」を手に入れてしまうと、この世のすべてのことはその「常識」に合っているか・あっていないかで善悪・良し悪しの判断をつけることが出来るとおもいこんでしまう。
 
そして、時には自分の人生や、生活状況をその「常識」当てはめてみてこう思うのだ。
「常識的に考えて、そろそろ結婚、でも相手がいない。やばい、不安だ」
「常識的に考えて、この年齢だったらこれくらいの給料ほしい。不満だ。」
 
「常識」は私たちが持つ一番身近な他者志向的なものさしだ。
・・・・って、あれ?なんか、デジャブじゃない?
 
 
このように胸に手を当てて考えてみれば、私たちはユウキの業を一方的に愚かだとみくびることが出来ないのだ、出来るはずがないのだ。
 
 そうやって、読者が自分の中にいるユウキだったり、心の奥底にある「業」の種のようなものに対峙した時、この小説は一層その重さ・エグさをマシマシするのである。
 
 
 
 

しかし破滅が救いになることもある

と、それっぽいことを書いてみたが、
私はこの話のキモは、破滅の先の先まで行きついたユウキが終盤にみせる「信じられないほどの吹っ切れ具合」であると思っている。
 
本当キレッキレすぎて、え?おま誰、誰おま状態だよ。特に255ページ以降とか。
え~~~なんか、ユウキ、やれば出来る子じゃ~~~~~ん感がすごい。
 
そんでもって、こうも思う。このユウキは最高に主体的で、自律的で、自身に満ち溢れていて、「何者」かになりきれている、と。
 
 
 
社会的にはアウトかもしれませんが、私はなにこれ(ユウキにとっては)最高のハッピーエンドじゃんって思った。
 
 
 
 
 
しかしながら、ユウキはこれから先「他者に救いを求める」とはまた異なる
新たな業を背負っていくのだろうから、やっぱ人生ってのは世知辛いわって思ったよ。
 
 
おしまい