斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

そして、父を語る1

 

 

私の父は、一昨年の11月にホスピスで死んだ。

 
 
職が続かない人だった。建築会社、証券会社、中規模商社と将来設計が感じられない転職を繰り返したのち、40半ばで拾ってくれたシロアリ駆除会社で左遷に合い自主退職。その後は郵便局や冷凍センターのアルバイトにつくも、それらもどうして長続きはしなかった。
私が中学生に上がった年、ついに父は再就職と労働を放棄した。
日がな一日家にいて、たまに近所をボロい自転車でフラフラし、ブックオフで読みもしない三流自己啓発本を買いあさり、セブンイレブンダイソーで食べ物を買いこんでは食べ漁り、酒をあおり、妄想で家族を怒鳴り、昼夜問わず爆音で矢沢永吉をかますようになった。
 
アル中無職アラフィフ(2児の父)の爆誕である。
 
こうして冷静に父の姿を字面に起こしてみると、我が父ながらもう、なんというか、お腹いっぱいだ。
 
時を経て今は素直に、父に対してある程度の距離をもってして「お腹いっぱい」と言うことができる。だが、当時弱冠12歳の私にはこの父はあまりにも、そうあまりにも「クレイジー」で「キチガイ」で社会の型からはずれた負け犬だった。この世の中で最も恥ずべき、最も隠すべき、最も蔑むべき存在であった。
 
中学生の私が知っていた世界や社会はあまりにも狭かった。そして父とは違った「父親」たちばかりが生きていた。そんな「父親」の庇護のもとのびのびと生きる「普通の子ども」。私の世界はそのペアで溢れていた。私だけが異質で、足りない子だった。そう思っていた。
 
「私ちゃんって、変わってるよね(笑)」とよく言ってきたお金持ち一人っ子のゆめちゃん(仮名)の家のお父さんはCanonに勤める真面目サラリーマンだった。
 
深海魚のコブダイにそっくりだったいじめっこのももかちゃん(仮名)のお父さんは地元で知らない人はいない地域の人気レストランのコックとして華々しく働いてた。
 
一見家庭が荒れてそうなクラス一番の番長の家のお父さんだって、漁師って職業を全うしてた。
 
だいたいの父親は働いていた。父親という存在は、夜爆音で矢沢永吉を聞かず、酒を呑んだくれず、酒からくる妄想で子供を怒鳴らず、まっとうな職についていた。まっとうに生きていた。
当時の私からしてみればまぶしくて、「格上」の父親たちだった。同級生たちは皆「格上」の子供に見えた。この世界は、「格上」の父親が率いる「格上」の家庭ばかりだ…それに気がついた時、私は馴染めないクラスの教室の片隅で、1人で本を読んでるフリしながら絶望した。あの時の惨めでどうしようもない気持ちは今でも覚えてるし、これから先、忘れもしないだろう。
 
コネなし職なし金なし協調性なし。ないないづくしの父が率いる家庭は、当時の私にとっては沈みゆく泥舟以外の何物でもない、居心地の悪いものだった。父無職アル中、パートで母は過労から難聴に、父を一切責めない過保護な父方の祖母、ADHD+知的な障害をもつ、「ふれあい学級」の弟。もう、てんこもりだ。お腹いっぱい通り越して、吐きそうだった。
 
自分の人生はクソだ、詰んでると思った。いつしか父と家族と、それから「自分」が私の中で「格下」で「負け犬」で、「恥ずべきもの」となっていた。そうやって、私は自分に呪いをかけたのだ。
 
 
父の無職化を契機とした、この「自尊感情崩壊クライシス」は思春期以降の私と父との関係を徹底的にこじらせ、家族を苦しめた。
 
中2くらいまでは、それでもなんとか取り繕うことができていた。シンとした食卓で、必死に明るい話題を提供し父の機嫌をとったり、ブックオフで仕入れた二束三文で手垢まみれ教養本を、深夜勝手に自室に侵入してきた父親に手渡されても「ありがとう」と笑顔を見せたり、友達と下校中に街を自転車で徘徊している父に大きな声をかけられても、嫌な顔ひとつしなかった。祖母から私の息子(父)こんなにすごいの武勇伝を聞かされてもスルーせず聞いたフリをできた。祖母に「私ちゃん、将来は弟くんのこと頼むよ、あの子は1人で生きていけないから。絶対ね」とテメェの息子の処理もままならないのに将来を約束された時も、神妙な顔をしてうなづけた。疲れ切った母に、学校での悩み相談をし「私ちゃんは理想が高い、考えすぎ、そんなの普通、大したことない。」とあしらわれても、言い返さなかった。そんな、器用な真似が出来ていた。
 
それは、「育ててもらった恩がある」とか「子どもは親を大切にしなければいけない」とか「家族は何よりも大切なものである」といった世間に溢れる善良な言葉たちに、本当は納得してないくせに、納得したふりをしていたからだった。善良な言葉たちに日々押しつぶされ、息も絶え絶えに、やっとのことで自分の感情を殺しながら生きていたからできた芸当だった。
 
「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「家族は大切に」「家族は大切に」「家族は大切に」「家族は大切に」
 
母が、父方の祖母が、親戚が、養護教諭が、スクールカウンセラーが、先生が、テレビが、本が、映画が、そう私に言い聞かせた。
 
「仕方ない」「仕方ない」「仕方ない」「我慢して」「我慢して」「我慢して」「それが当たり前」「それが当たり前」「それが当たり前」
 
当たり前じゃない父、当たり前じゃない家庭。なのに、そこは、私には当たり前を求めるのか。
 
ある時、怒りが一気に爆発した。
 
怒りに任せて包丁を持って、母に切りかかった。父にではなかった。母に切りかかった。父は私を止めもせず、自室に籠もっていた。祖母に止められた。警察とかは特に呼ばれなかった。
 
全ての騒動が終わった後、父は自室から出てきて、一言私に言った。
 
「お前、頭おかしーんじゃねーの?」
 
負け犬の遠吠えだと、その時は思った。
 
 
(親も、家族も、たいしたことねーな。てゆーかクソじゃん。てか、産んだのもあんたらがセックスしたからじゃん、私頼んでないじゃん別に、もうどーでもよくね?恩とかなくね?好きにしよ)
 
気弱ないい子ちゃんが、暴力に任せた開き直りを覚えた瞬間だった。
 
 
そこから先は、「好きにした」。
父親の存在を徹底的に無視した。話しかけられても答えず、視線も向けなかった。いない者として扱った。でもイライラした時にだけ、サンドバッグみたいに怒鳴りつけた。気まぐれに、思いのままに。
爆音で矢沢永吉かけた暁には、それと張り合うくらいの声量で怒鳴りつけた。さいっこうにスッキリした。なんでもっと早くこうしなかったんだろう、私、バカじゃんって思った。
 
「うっせーよカス、黙れ」
「お前なんか糞製造機なんだよ」
「とっとと死ね」
 
 
色々言った。父は言い返さなかった。祖母も母も何も言ってこなかった。何も。
でもたまに、「俺は大学受験の頃、浪人して不眠症になった」だとか、「長年インポだった」とか、父は言い訳なんだかよくわからない妄言を返してきたりもした。は?今更カワイソーしろって?ダルっ、てかキモいと私は一刀両断した。
 
「キモい!!!死ね!!!!!!!!!」
 
 
そのうちに、父はヤザワを聞かなくなった。代わりに部屋のリビングで、すっごい昔に撮ったホームビデオを日中ぼうっと眺めることが増えた。ずーーっとビデオを見てた。このDVDのご時世にビデオデッキでビデオテープを見ていた。うちにはDVDプレイヤーがなかった。
 
荒い画面の中には、幼い私がいた。
 
音割れする音声が「私ちゃーーーーん」「私ちゃーーーーん」とよちよち歩きをする私に呼びかけていた。それはずっと前の父の声だったり、母の若い声だったりした。
 
「今日はどこにきましたか?」
「今日は何しにきたんですか?」
「たのしいですか?」
「よかったねーーーーーー」
 
声はずっと幼い私に話しかけていた。私は恥ずかしそうに、いちいちそれに答えていた。タンポポの花かんむりを、最高の宝物を持つような手つきで優しく抱えていた。
 
 
それを見て、画面の中の自分とそれを見つめる父を見て、ふざけるな、とその時私は怒りを覚えた。ふざけんな、ふざけんな、何が家族だ、何が家族だ、綺麗事だ、綺麗ごとだ、家族なんてクソだ!
 
「こんなん見て何になるんだよ、カス!私がクソ娘になったって言いたいんだろ!!子が子なら親も親だ、お前のせいだよ、お前のせいだよ、お前のせいだ!現実逃避してんじゃねーよクズ!」
 
思ったことは、素直に言った。好きにした。父は黙り込んだ。そして、とうとう父は自室にこもるようになった。
 
 
つづく