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斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL一年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

私以外も私です

今週のお題「20歳」


20歳になったいま、思うことがある。


10代の頃、私は父を軽蔑していた。

父はアル中で、そんでもって無職だった。自室で、昼夜問わずYAZAWAを爆音で垂れ流し、日中はいつもオンボロの自転車に乗ってブックオフに通いつめる父。読みもしない自己啓発書、使いもしない100均のクリアボックスを買いだめる父。祖母のことをクソババアと揶揄する父。俺は自由に生きるんだ、俺は自由に生きるんだと扶養をされる身分の癖に、うわ言のように繰り返していた父。私は父を軽蔑していた。


10代の頃、私は母を軽蔑していた。

父がアル中になるのを止められず、流れ流され生きてきた受動的な母。私が何を聞いても「わかんない、わかんない」と一蹴する無知な母。耳が悪くて、携帯ショップの店員の言葉を何度もなんども聞き返す母。なんてバカなのだろうと軽蔑していた。


10代の頃、私は祖母を軽蔑していた。

落ちぶれている父を産んだ祖母。父を黙認する祖母。要領が悪い祖母。くちゃくちゃと音を立てて物を咀嚼する祖母。信心深く、ご先祖の仏壇に毎日毎日食事をあげ、拝んでいる祖母。いもしない死んだ奴拝む前に、まず自分の息子どーにかしろよと呆れていた。


10代の頃、私は部活の顧問を軽蔑していた。下っ端公務員(事務員)の立場で、生徒には強く、他の教師や外部講師にはゴマばかりすっていた顧問。朝練をしている私たちの横で、私たちの自習練習の仕方を、他の顧問と聞こえるようにわざと大声で揶揄していた顧問。毎回外部練習で機嫌が悪くなると、1人で近くのファミレスに行ってしまい、戻ってこない顧問。困ったと生徒全員でジョナサンまで追いかけると、キレる顧問。しかし、追いかけないともっとキレる顧問。

大人って本当クソだなと憤っていた。


大人ってクソだなと思っていた。大人っていうのは、アル中で、流されやすくて、要領悪くて、大した能もないくせにゴマするゴミばかりだと思ってた。私は大人になりたくなかった。10代終わったら、小洒落た遺書書いて、それをFacebookに投稿して、首吊って死んでしまおうと考えてた。






10代の終わり、19の時に父が死んだ。先を越された。

まぁ、死ぬだろうなと思っていたから、その時は別にどうとも思わなかった。午前6時にホスピスで息引き取って、葬儀屋が遺体を取りに来てくれるのを待つ間、私は待合ロビーでmowのチョコアイスを買って食べた。

アイスはどーってことない味がした。なんかもう、色々なことがどうでもよかった。


2、3日後、家族葬が淡々と行われた。

親戚がちらほら来た。近所の人もぽつぽつ来た。坊さんが有り難いのかそうでないのかよくわからん経を唱えるのを、ぼうっと見て、焼香して、そんで寿司食べた。


寿司食べながら、参列してくれた人らは父の話をポツポツした。


色々な話が出た。どれも初耳だった。 


幼い頃、介護と三人の子の子育てに追われ、辛くて泣いていた祖母に駆け寄って「母さん、母さん、辛抱だよ、辛抱だよ」と言った父。

小学生の頃、地元の少年野球で投手として活躍し、アメリカの小学生との交流試合で投げ抜いた父。

学区1の高校に進学し、そこで全く勉強についていけなかった父。

高校の頃、買ったお気に入りのバイクをお金のない友達にあげてしまった父。 

体育大学へ進学したかったのだが、祖父からの意向で、建築か土木が学べる大学しか受験をさせてもらえず、2年浪人し不眠症になった父。

何かあると、嫌な顔1つせず車を出して、家族のお抱え運転手をしていた父。

大学入試で「親子の断絶」をテーマにレポートを書けと言われ、「特に断絶は感じたことがないが、強いて言うなら食の好みが違う。食というのは生きる上で大切なことであるから、これも立派な断絶であろう」と述べ、その後の面接で、君のが一番面白かったよと言われるも、無残に落とされた父。

大学の頃、徹夜麻雀にはまってよく親戚のおじさん方としていた父。

大学院への特待進学の話を貰うも、母子家庭の同級生にその話を譲った父。 


聞いたことがなかった。意味が分からなかった。訳がわからなかった。


みんながみんな、いい奴だったいい奴だったというものだから、よけいに混乱した。

私の中の父の姿は、思い出話の中にはとんと現れてこなかった。





無事に火葬も終わって、葬式も終わって。位牌抱えて家に帰り、ずっと、私は父のことについて考えていた。


なぜなんだろう、と思った。聞きたいことが沢山あった。なんで、なんで、なんで?こんな気持ちは初めてだった。


今、本人に聞こうと思うにも、もう相手は灰になっている。

だがまだ生きていた頃、本人に聞けた頃には聞こうとも思わなかった。聞かなかった。だから、父も話そうとも思わなかったんだろう。

なんだ、どっちにしろ知りようがない。分かりようがないじゃないか。


そこで初めて涙が出た。意味が分からなかった。ガン泣きした。訳がわからなかった。過呼吸になった。



そこで私は気がついた。

大人だって、人間なのだと。

大人だって、いつかは子供だったのだと。

そして、大人だって、懸命に生きているのだと。


完璧な父親、理想的な父親とは程遠い父であった。

しかし、それなりにそれなりに懸命に生きていたのだと思った。懸命に生き、お人好しで、我慢して、辛抱して、挫折して、それでも生きていたのだと思った。


「母さん、辛抱だよ」


そういった小さな子どもは、父は、きっと自分自身にもその言葉をかけ続けたんじゃないかだろうか。辛抱だよ辛抱だよ辛抱だよ。その反動が晩年のあの言葉だったのかもしれない。「俺は自由に生きるんだ」


そのことに気がついた時、私は父の姿に小さな少年の姿が重なって見えた気がした。


介護に家事に追われる母に構ってもらえず、寂しさを堪え「辛抱だよ」とつぶやく子ども。

自分の進路を否定され、強制された進路のため「辛抱だよ」と浪人に耐えた子ども。

特待生の話を、正義感から母子家庭の子に譲り、「辛抱だよ」と就職を選んだ子ども。




すると、憎くて、軽蔑していた記憶の中の大人たちの姿にも、小さな子供がオーバーラップして見えた。


早くに最愛の父を亡くし、母親と折り合いが悪く、戦争の時代を懸命に生きた祖母と言う子ども。

デブだのろまだと部活の先輩からいびられ、死ぬ気で楽器に打ち込んだ顧問という子ども。

父の仕事の都合で転校を繰り返し、人との関わり方に悩んだ母という子ども。


みんなどうしようもなく子どもだった。私は何も見えていなかった。みんなみんな、心の中に子どもを抱えていたのに。みんながみんな、完璧だなんて、あり得ないことなのに。きっとこの世に大人なんていないのだ。年をとった子どもが、懸命に大人のふりをしようと、自分の中の子どもを消そうともがいて、取り繕って、生きているだけなのだ。自分の子どもに蓋をして、見ないふりをして。自分の心の欲求を、聞かなかったことにして。


それに気がついた時、私は私の中にも1人の子どもがいたことに気がついた。


もっと、沢山お父さんと遊びたかった。

もっとお父さんと遊園地に行きたかった。  

お母さんとショッピングに行ってみたかった。

お母さんに、私の質問をちゃんと聞いて欲しかった。

顧問に褒められたかった。

祖母に父だけでなく私を見て欲しかった。



どうしようもない子どもがそこにいた。私も、何も大人と変わらなかった。


どうしようもない子どもが心の中にいた。子どもは私を忘れないでと言わんばかりに、ずっと泣き叫んで、ぶーたれて、怒り狂って、不貞腐れて。でもその子どもに私は気がつかなかった。気がつこうとしなかった。


許せないこともされた。許すつもりもない大人も中にはいる。

でも、赦す赦さないとか、いまはどうでもよくなってしまった。

みんながみんな、どうしようもないのだ。いまはそう思う。20歳のいま、そう思う。

大人も、子どもも、その間にいる私も、心の中に子どもを抱えて、その子どもを見ないふりをしている。ただ、それだけだ。


だから、私以外も、きっと私だ。


あなたもわたしもあのこもあの人も、心の中にどうしようもない子どもを抱えて、生きている。