斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

メンヘラコンテンツ地獄の門

 

 
 
溢れ出る自意識をインターネットで公開し、コンテンツ化する人たちがいる。
 
ブロガーやツイッタラー、ユーチューバー、インスタグラマー。
 
多様な媒体から常に提供される各コンテンツたち。その持ち味(個性)もやはり多様である。
 
自意識を披露するだけで注目と賞賛を得られ、なおかつ広告費で金を儲けることができるなんて。
 
まさしく現代のアメリカンドリームのようなウマイ話であるが、そこは1億総情報化社会。今時小学生でもスマホを持てるこの世の中で、時代の流行を察知し、他者にウケるコンテンツを提供し続け、人気を獲得するのは至難の技である。
しかしながら、一方で時代の流行に流されることなく一定の割合で支持されるウマいコンテンツがある。
 

それが、メンヘラ芸コンテンツだ。

 
 
メンヘラ芸コンテンツ?と頭にハテナマークを浮かべた方、残念ながらあなたインターネッツの迷い羊である。このページに来たのは何かの間違いだから、即刻このページを閉じて、このブログのことを忘れて、いつものようにミックスチャンネルなりInstagramなりFacebookなり、元いた牧場に帰っていいねを搾り出す作業に戻っていただきたい。
 
 
 
私が今回話をしたいのは、『メンヘラ芸の門を叩く者は、一切の希望を捨てよ』という話である。
 
 
 
 
 

⒈メンヘラ芸が生み出された土壌:「一昔前のインターネット」

 
もともとインターネットというものは、メンヘラと親和性の高い弱い者の溜まり場であった。
 
学校のクラスで例えるなら、誰とも私的な会話をせず、昼休みの時間には無表情でボーッとするか机に突っ伏しているかしかしていなかったあいつ。教室の隅で埃と水だけ飲んで生きていたようなあの子。例え保健室に行ったとしても、誰にも気にもとめられずにいた私やあなた。ちょっとしたことやちょっとしない大事に、すぐ気を病んでいた私たち。
 
そんな現実ではクソみたいな我らが、ゆるーい仲間意識をもって「おまいら」、「ぽまいら」と馴れ合うことが許されたのがインターネッツである。
 
当時のインターネット世界は良くも悪くも顔が見えなかった。実名は伏せられて、発言は明朝体やゴシック体で形作られた活字が踊るのみ。
 
現実ではダサ眼鏡猫背の脂ぎったにきび面で吃る人間もインターネット上では「ふつう」になることが簡単にできたのだ。
 
ここでは「2人組作って〜」と言われることもなければ、文化祭の準備で手持ち無沙汰になって内臓がぎゅっとつかまれる様な痛みを感じることもないし、体育祭をこっそり抜け出して図書館にこもり、遠くから聞こえてくる歓声を心臓をドキドキさせながら聞かなくても良いのである。
 
彼ら、我らにとってこんな居心地の良い場所はない。
 
そんな「ふつうからのはみ出し者」との親和性の高さという土壌は、新たなコンテンツ・アイコンを生み出すことになった。
 
それが、今は亡き伝説のネットメンヘラアイドル、南条あやさんだ。
 
 
 
 

2.メンヘラ芸界のレジェンド、南条あやさん

 
南条あやさんは90年代後半に彗星のようにあらわれて消えたメンヘラ系ネットアイドルである。
 
 
 
小学校でいじめと不登校を経験。中学生からリストカットを開始し、ODにハマる。高校生になると大学病院の精神科の閉鎖病棟への入院を経験。
 
そんな彼女は高校生の頃、薬事ライターの町田あかねさんが運営していたウェブサイト「町田あかねのおクスリ研修所」に薬物使用の体験談メールを送ったのがキッカケで、町田さんのウェブサイトに「南条あやの部屋」という日記連載を持つことになる。
 
日記は1998年5月〜1999年3月という彼女が高校を卒業する年の3月まで続けられ、そして同月の末に彼女はODが原因で亡くなった。
 
明らかに「ふつう」じゃない彼女であったが、彼女にはさらに「ふつうじゃない」才能があった。
 
それは類い稀ない文才である。
 
この一文を見てほしい。
 
私は学年で有名人。切れ者として。人によってどこが切れているのか、認識の違いはあると思いますが。(笑)Nanjyo 1999.1.17
 
とんでもなく皮肉を効かせたブラックジョークだ。
どことなく、切れ者(リストカッター)である自分も、その周りにいるふつうの人、すべてをバカにしているように感じられる。
 
メンヘラである自分もその周りのあれこれも痛快に笑い飛ばすという姿勢は、当時のインターネット住人たちにとって非常に衝撃的であっただろう。
 
 
 
察するにそれまで、メンヘラというものは、普通でないということは隠すべき影の対象であった。
 
リストカットするなんて、
ODするなんて、
不登校なんて、
クラスに溶け込めないなんて、
友達がいないなんて、
2人組であまるなんて、
 
言わずともメンヘラ・普通じゃない弱い者がとる行動をさす主語のあとには、必ず「恥ずかしい」がはいる。
 
人並みでない。人様と違う。私だけ、私だけ、恥ずかしい。
 
そんな時代に南条さんは自身の普通じゃないメンヘラさをシニカルにツッコみ、そして笑いに昇華させた。
 
これは本当に目からウロコの偉業である。
 
彼女によって、メンヘラは、普通ではないということは、1つのコンテンツに、1つの「芸」に確立されたのである。
 
 
 
 

3.SNS時代の南条あや、「メンヘラ神」

 
時代は流れ、情報技術は進歩し、インターネット社会は大きく変化した。
 
一般人(ふつうの人)へのブログ浸透、前略プロフの流行、mixiなどの会員制SNSの発展、学校裏サイトの興亡、動画サイトの一般化(私が中学生の頃はニコニコ動画YouTubeを見ていると言おうものなら、、どうなったか想像するのも恐ろしい)。
 
そしてひたすら自意識を発信できるTwitterや、自身のおしゃれライフをアピールできるInstagram、実名登録・顔出しで自身の社会的優位性を大声を出して宣伝できるFacebookの普及を通じて、ついにインターネットは、私たちのインターネッツは、「ふつうの人」のものとなってしまった。
 
インターネッツはメンヘラたちの居心地の良い底辺空間から、いかに自分の優位性、有能さ、人望の厚さをアピールするキラキラ空間へとその姿を変えた。
 
インターネッツ上のメンヘラたちが、毎日流れてくる「ふつうの人」たちのキラキラアピールに瀕死の重傷を負う中、颯爽と救いの手を伸ばす女神がいた。
 
それが現代のメンヘラコンテンツのパイオニアである「メンヘラ神」さんである。
 
 
メンヘラ神さんはTwitter、ツイキャス、はてなブログを中心に活躍された21世紀のメンヘラアイコンである。
 
 
@Q_sai__ (Twitterの遺跡アカウント)
 
悲しいことに、彼女も南条さんと同じく、この世にもういない。
メンヘラ神さんの死に関しては彼女の死そのものが1つの刑事事件に発展していることから、言及は避ける。
 
が、ひとつ言いたいのは私は一個人として、彼女の書く文章が、とても好きである。
 
 
私たちメンヘラ特有の自意識の強さ。そこから生まれる苦しみ。普通になりたいという欲求と葛藤。自己愛に満ちた理想像と、ほんとうの自分とのギャップ。開きすぎたギャップによる必要以上の自己卑下。そしてそれらの根底に流れる自己否定と自己嫌悪。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心(この言葉めちゃメンヘラ表しててすごい好きです。多用してしまいます)
 
メンヘラ神さんはそれらをすべて笑いとして、コンテンツとして昇華させていた。
 
ODしちゃうアタシ、吃っちゃうアタシ、コミュ障なアタシ、性依存なアタシ、コミュニティをクラッシュさせちゃうアタシ、愛されたいアタシ、愛されたいアタシ。
 
そんなアタシを愛してよ誰か!と叫ぶ姿はあまりにも痛々しくて、見覚えがあって、身につまされて、そしてすごく笑えるのだ。
 
キラキラ輝くタイムラインにふっと彼女が浮かんでくるだけで、自分がキラキラプールの中で潜水して息を止めていたことを思い出して、プハーッと息を吐いて、吸う。
 
そうして私たちはまた息を止めて、日常をなんとかやり過ごすことができていたのだった。
 
しかしながら彼女は常にメンヘラをコンテンツとすることに情熱を注ぎ過ぎていたきらいがあった。
 
彼女のツイートより抜粋
 
友達に「メンヘラ芸みたいな危うい面白さってのは不安定だったり欠陥があったりするところからしか生まれないから、彼氏できて進級できてゼミ合格してハーブやめたお前はもうオモシロポイント0なワケ、オワコンなんだよオワコン」って言われて、思い出したかのように慌てて手首切ってる
 
今は亡きメンヘラ神さんであるが、私は声を大にして言いたい。あなたという仲間が幸せになることを、普通でなくてもそれなりに生きていくことを、どうして咎めたり「オワコン」とがっかりしたり、失望したりするであろうか?
 
きっと私と同じことを思うメンヘラたち、メンヘラ予備軍たちは多くいるはずだ。
 
それだけメンヘラ神の心の中にいた「コンテンツとしてのメンヘラ」は一部の人間たちにとっては普遍性があり、共感性があり、身近で親近感のある半身のような存在であった。
 
つまり、先述した「メンヘラ芸」が一部の割合で支持される理由とは、インターネッツにいる一部の人間たちにとって、「メンヘラ芸」は自身の一部であり、痛烈な共感を覚えるコンテンツとなりやすいからということである。
 
 
 

4.北条かや氏の「コンテンツ」について

 
炎上以前から、私は北条かや氏のコンテンツそのものについて疑問を抱いていた。
 
「この人は一体何をコンテンツとして発信しているのだろう」
 
騒動の元となった著作「こじらせ女子の日常」をはじめ「整形した女は幸せになっているのか」など、発信している作品は一見して「こちら側(メンヘラ側)」と親和性の高いものが多い。
 
ファン向けに配信している有料のnoteでは、精神薬の話や通院の話などをよくしていると聞く。なるほど、彼女は実際に診断を受けた正真正銘の「メンヘラ」なのであろう。
 
かといって、だからといって、南条あやさんやメンヘラ神さんのように私は彼女が「自分の仲間である」という共感性や親近感を抱くことが出来なかった。
 
それは所々で彼女の根底にある「女としての自己愛の強さ」を感じてしまうからである。
 
 
この自己愛の強さをどこから感じるのかをあげていくともう本当キリがないので、一番最近の氏のブログの文章を紹介したいと思う。
 
炎上騒動後、同級生のY氏(たぶん男性)にスタバに誘われた北条氏は、そこで「叩いてくる奴はお前が気になって仕方ないんだ」的なわりとあるあるな感じで慰めてもらったという。
 
そのくだりでの一文。
 
「ちなみに私は、フラペチーノのなかで一番カロリーが低いマンゴー味を頼んだ。お腹が冷たくなったけど、美味しかった。」
 
そしてY氏と飲み物を飲みながら夫婦漫才のような掛け合いをした後
 
「Yは恋人でもなければ、友達でもない。ただ、どこにでもついてきてくれるので、地元仲間として結構、心強い気がする。」
 
 
 
これらの文をみて、私はあーーなんでそういうことを言ってしまうんだろう、やっぱり何をコンテンツとしたいのか分からないなこの人はと思ってしまった。
 
 
カロリーが低いものを飲んでいると特筆すること、ピンチの時にはいつでも駆けつけてくれる恋人未満の男がいるという一文を付け加えること、これはもはや「キラキラふつう人」がリアル・ネット問わず常用するマウンティングと捉えられても、致し方ない表現である。
 
マウンティング、これはメンヘラたちに対するコンテンツを運営する上で、1番やってはいけないことだ。
 
なぜなら、メンヘラたちは現実世界ですでにマウンティングを受けまくり、ボッコボッコにされ、満身創痍であるからだ。何が楽しくてネット世界でぽまいらから攻撃をされなければいけないのだ。ブルータスお前もかも大概にしてほしい。
 
思うに、北条氏がここまで炎上したのはインターネッツ上で生きながらえている何百、何千という私たちメンヘラが「俺たちのメンヘラをてめぇのコンテンツとして語るんじゃねぇ!」という決死の防衛戦をおこしたからではないかと考える。
 
兎にも角にも、インターネッツ上のメンヘラから「あなたはこちらの世界の人間ではない」と言われてしまった北条氏に残された道はきっと限られているだろう。すげー余計なお世話だが。
 
「こじらせ」系のメンヘラ・繊細コンテンツを封印して、新たなコンテンツを作っていくか
 
従来のコンテンツをインターネット上ではなく、ファンの見る一部のインターネッツで提供するか
 
2つに1つであろう。
 
 
 
メンヘラコンテンツとは、いきはヨイヨイ〜帰りはコワイを体現するコンテンツである。
 
持ち上げられるのも容易いコンテンツであるが、その分飲み込まれ、取り込まれ、足元をすくわれ、転落するのもあっけない。
 
 
 
 
メンヘラコンテンツの門を叩く者は一切の希望を捨てよ
 
 
私はこのことを声を大にして、言いたいのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こちらから南条さんの記事引用しました
 
 
 
 追記(7/7)
思うところあって、タイトルをかえた。
約3ヶ月前ほどに書いたこの記事が、ここ数日で多くの人の目にとまっていることに驚きを隠せずにいる。
もし万が一、この拙筆が北条氏本人の目にとまるようなことがあれば、私は1つだけ伝えたいことがある。

私は何も「あなたはメンヘラ神になれない=あなたはかわいそうぶりっこで自殺なんてきっとしないだろう」ということを言いたくて、あなたを攻撃したくてこの記事を書いたのではない。 
色々論争は起きているが、あなたが実際に「生きにくい、つらい」と感じるならば、それがあなたにとっての真実だと思うし、その「真実」や「辛さ」を発信すること・表現することにはなんの罪もない。

ただ、インターネッツのメンヘラーたちに向けて、メンヘラコンテンツを提供して、双方がwin-winになるためにはどうしたらいいんだろうということをこの記事では伝えたかった。



とにかく北条かやさん、死なないでください。
メンヘラコンテンツも私もアンチも2chも無視して、もっと図々しく強かに美しく生きていってください。以上、ささやかな祈りです。