斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

生きること、それそのものが「業」(カルマ)なのか 新庄耕『ニューカルマ』感想

 

以下、読書感想文である。

高校生ぶりだぞ、こういう文章書くの。

 

 

新庄耕さんの『ニューカルマ』を読んだ。

 

新庄さんは『狭小邸宅』を拝見して以来すごく惹かれている作家さんである。

そんな新庄さんの新刊がでてると今さら知り、先日購入をした。

 

ハマったきっかけである『狭小邸宅』は、

上司に暴力振るわれ・罵倒され・詰められてた「客を殺せない」三流企業のダメ不動産営業マン松尾(多分慶応出身)が、

ぜってえ売れねえっていわれてた蒲田の狭小邸宅を売ることに成功するんだけど、

評価と羨望と自尊心と給料と引き換えに心の中にあるなにか大切なものを失ってしまってめでたしめでたしできませんでしたって話。

 

私、この「めでたしめでたし、ってなるわけねーだろ」って感じのラストがすごい好きで。

 

突き放しているわけでもなく、かといって必要以上に「ほらあ~これがノルマに詰められた社畜の末路だよお~~~恐ろしいだろう~~~~」とあおるわけでもなく

「ま、これじゃ幸せになれないよね?なんでかはわかんないけど、てか幸せってなんだっけ?」って読者にも問いかけるみたいな、まじで精神ぶっ壊れちゃった感じの虚無さがあるのだ。

 

 

 

 

ってなわけで前作は「だよね~、人生、そうめでたしめでたしってならないよねえ」感が読んでてあったから、

きっと今作も題材がネットワークビジネスというものに変化しただけの「めでたしめでたしできない話」なのかなって軽く思ってた。

 

 

全然違った

 

 

 

これは人間の業の物語

先に簡単なあらすじを。
 
大衆大学から超大手メーカー「モリシタ」の関連会社「モリシタエンジニアリング」に就職をし、今年で5年目の主人公・ユウキ。
 
仲良くランチを食べ、バカ笑いできる先輩おっさん社員も2人いて、給料もまぁ年齢の割にそこそこで、仙台から上京して自由が丘で優雅な一人暮らししてて、行きつけのお洒落バー的なところもできて、大抵勤めている会社名を言えば周囲の人は賞賛を送ってくれる。鼻高々でそこそこの日々。
 
しかし、そんなユウキのそれなりの日々にも暗雲がたちはじめる。親会社モリシタの経営難。それに従う大規模なリストラ。そんな中、嫁と子どもと新築ローンを抱えていた先輩おっさんその1(ハゲ)が、人員整理で僻地九州工場へ「島流し」後、自主退職をするように勧告をされる。
 
徐々に迫る人員削減の波に危機感を感じ、転職活動に勤しむユウキだったが、上手くいかない。
 
TOEIC600点ですけど、実際に英語を用いた取引を行った実績はありますか?
 
展示会で5%の利益を向上させたとおっしゃっていましたが、具体的にどのような取り組みをどのような意図でおこなったのですか?
 
 
 
 
これまでそれなりにこなしてきたと思っていた社会人生活だったが、結局自分は何もスキルを得ることができなかったのではないかと焦燥感に駆られていく。
おまけにハゲおっさんの後釜としてやってきた上司がウザネチネチくそ野郎。
結構グレーめの「ご指導」を受ける日々。
 
徐々に追い詰められていくユウキに一本の電話が。
 
「すごいんだよっ、すごいの。俺の話なんか聞かなくていいから、明日ちょっとだけ時間もらえない?(中略)アメリカからすごい人が来てて。会えることになったんだよ。ね、すごいの本当に」
 
それは、卒業以来まったく交流のなかった大学の冴えない同級生からの突然の呼び出しであった………
 
 
 
時系列をわかりやすく説明するために若干いじったけど、だいたいまあこんな感じ。
 
新庄さんだし、こんなあらすじだし、この時点でもう暗黒のラストしか見えない。
 
ご想像の通り、ユウキは同級生から勧められたネットワークビジネス会社「ウルトリア」の会員となり、
 
搾取され、子会員を得るために強欲ドSデブBBAに体を売り、強引な勧誘により会社での立場をなくし、ヤケになって退職し、一時だけ金を稼ぎ、高価な装飾品を買い、のちにあっけなく子会員に寝返られ、金を失い、転落し、そして転落しきった先で友人の手により「再生」される。
 
前半はひたすらユウキがネットワークビジネス企業「ウルトリア」と出会い、懐疑し、懐柔され、染まり、落ちるまでをイヤーーーーな感じで描いている。
何が嫌かって、とにかくネットワークビジネス関連の描写がシビアで、えげつない。
定期的に開かれる会員による会合の場面とか、「成績優秀者」への表彰式の場面とか、徐々に徐々にこれまでの人間関係を象徴する場所やコミュニティを追い出されていく感じとか、にっちもさっちもいかなくなってまったく見知らぬ人にビジネス勧誘をし始めちゃう場面とか。
 
そんなことが中盤の170ページくらいまで続くので、正直、ボロボロになりながらも親友に救われた時は「きっとこれから先もなんかあるんだろうな」とは思いつつも「ホッとする」
 
なんだ、よかったじゃんめでたしめでたしだって。
 
そんなわけないのにね!
 
 
ユウキが背負う業とは何か
 
親友に救われたユウキは、再就職先を見つけ新たな生活をスタートさせるが、その生活にも暗雲が立ち込める。
 
これから先言っちゃうと完全にネタバレになってしまうので自粛。(だから絶対本読んで!)
 
しかしながら、結末まで読んで、ユウキに破滅?(とも言い切れないのがこの小説のすごいところなんだけど、とにかく一般的に考えるとどう考えても破滅なので、そういうことにしておく)をもたらした「一つの業」に気づかされた。
 
それは「自己の不安や不満の解決の糸口を自分以外の存在に見つけてもらおうとする弱さ」である。
もっと言えば、「自分の人生の救いを他者に求めてしまう弱さ」とも言い換えることができるであろう。
 
 そもそも、この物語はなぜ始まったのか。
 
それは主人公ユウキが「今手にしているそこそこの生活環境」を会社の経営状況の悪化によって剥奪されそうになっ(て不安感を抱い)たことがきっかけである。
そうでなければ、ユウキだって、卒業してから一度も会っていない、特に仲良くもなく、どこか気が弱くて、服の着こなしもダサくて、(自分と比べて)就活に失敗した面白みがなく冴えない同級生の言葉なんて聞く耳を持たなかったことであろう。
 
しかしながら、仮に経営状況が悪化しなかったとしても、遅かれ早かれ彼は(一般的な視点でみた)破滅の道を突き進んでいく気がしてならない。
なぜなら、ユウキにとっての「そこそこの生活環境」という価値観は、非常に相対的で他者志向なものさしにより図られた不安定なものであるからだ。
 
 
「そこそこ面白い話をしてくれる先輩社員に、仲良くしてもらっている」
 
「無名企業の同世代と比較して、給料が高い」
 
「仙台と比較して、発展した都心にほど近い、みんながお洒落だと評価している、自由が丘に一人暮らし」
 
「自分のことを持ち上げてくれる、感じのいいママのいる、大人なら誰しもたしなみとしてもつ行きつけの店を持っている」
 
「就職先を言うと他人が称賛をしてくれる」
 
「若くして市長に立候補するような能力の高い親友がいる」
 
「しかしその親友は身体障碍者であり、その点では自分よりも劣っている」
 
 
この状況をあらわす言葉、すべてに主語は必要ない。
「ユウキは」「俺は」が必要ないのだ。
 
 
人生、あるいは自分にとっての「そこそこの生活」をはじめとした、自己の根幹を支える、価値観の基準設定に他者志向を用いるとどうなるのだろう。
 
その基準に沿った「人生」や「生活」に暗雲が立ち込め、剥奪されそうになった時にも、他者にすがり、救いを求めるほかないのだ。おそらく。
なぜなら、自分の人生・生活に対する満足を測るものさしがないのとおなじように、人生の暗雲を抜け出す基準も剥奪を逃れたかどうかの判断するための、自分の中のものさしがないのだから。
 
だからユウキは「ウルトリア」の会員の甘言に心をときめかせ、会合で表彰されるとどうしようもなく高揚し、そしてまたその高揚をもとめて道を突き進んでいくのだ。
 
 
弱い人間だな、もっと自分を持って、自律的に生きろよ。
読んだ人の中にはそのような感想を持つ人がいるかもしれないし、劇中でもユウキに対してそのような感情を抱いていた人物がいたかもしれない。
しかしどうだろうか。
 
 
私たちはネットワークビジネスというものを、一般的に悪だと思っている。
 
それは、このビジネスが、既存の人間関係を破壊し、個人の信用を失墜させ、ビジネスに失敗した場合は負債を抱えさせるからだ。
 
しかしそれは「常識」というものさしで測ったネットワークビジネスの一面に過ぎない。
 
では私たちの「常識」ってどこからやってきたのだろう。
あなたの「常識」って、あなた一人で形成したものですか?違いますよね。
必ずその形成には他者が関わったはずなのである。
そして、人は、一度「常識」を手に入れてしまうと、この世のすべてのことはその「常識」に合っているか・あっていないかで善悪・良し悪しの判断をつけることが出来るとおもいこんでしまう。
 
そして、時には自分の人生や、生活状況をその「常識」当てはめてみてこう思うのだ。
「常識的に考えて、そろそろ結婚、でも相手がいない。やばい、不安だ」
「常識的に考えて、この年齢だったらこれくらいの給料ほしい。不満だ。」
 
「常識」は私たちが持つ一番身近な他者志向的なものさしだ。
・・・・って、あれ?なんか、デジャブじゃない?
 
 
このように胸に手を当てて考えてみれば、私たちはユウキの業を一方的に愚かだとみくびることが出来ないのだ、出来るはずがないのだ。
 
 そうやって、読者が自分の中にいるユウキだったり、心の奥底にある「業」の種のようなものに対峙した時、この小説は一層その重さ・エグさをマシマシするのである。
 
 
 
 

しかし破滅が救いになることもある

と、それっぽいことを書いてみたが、
私はこの話のキモは、破滅の先の先まで行きついたユウキが終盤にみせる「信じられないほどの吹っ切れ具合」であると思っている。
 
本当キレッキレすぎて、え?おま誰、誰おま状態だよ。特に255ページ以降とか。
え~~~なんか、ユウキ、やれば出来る子じゃ~~~~~ん感がすごい。
 
そんでもって、こうも思う。このユウキは最高に主体的で、自律的で、自身に満ち溢れていて、「何者」かになりきれている、と。
 
 
 
社会的にはアウトかもしれませんが、私はなにこれ(ユウキにとっては)最高のハッピーエンドじゃんって思った。
 
 
 
 
 
しかしながら、ユウキはこれから先「他者に救いを求める」とはまた異なる
新たな業を背負っていくのだろうから、やっぱ人生ってのは世知辛いわって思ったよ。
 
 
おしまい