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斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL一年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

持たざる者へのまなざし

「持つ」というのは非常に便利な日本語だ。

その目的語となれる「モノ」の守備範囲たるや、あっと驚くほど、広い。

 

 

「人を魅了する美貌を持っている」

「五体満足で健康な肉体を持っている」

「都内に戸建てを持っている」

「定職を持っている」

「専門資格を持っている」

「大学院卒という学歴を持っている」

「とある技能を有している」

「高いコミュニケーション力を持っている」

「高い運動能力をもっている」

「趣味を持っている」

「親を持っている」

「兄弟を持っている」

「多くの友人を持っている」

「恋人・配偶者を持っている」

 

思いつくものをざっと挙げてみてもこれだけある。

 

好ましい外見的特徴、好ましい身体の状態、資産、住居、社会的地位、自己のアイデンティティ、収入、能力、生きがい、やすらぎ、環境、居場所、対人関係。

 

それぞれラベリングをしてみると、こんな感じか。

あまりの多様さに目が回ってしまいそうだ。

けれども、挙げた上記っていうのは、「客観的に観測出来うるもの」であるから、まだ分かりやすい。

これらに加えて、「自分に対して自信を持っている」だとか、「将来に対して希望を持っている」といった他人の目に見えない、本人の中にある観念的なモノだって、立派な「持つ」の目的語になりえるだろう。際限がない。

そんな風に考えてみると、もしかしたら「私たちが持つことのできる‘‘モノ’’」とは果てしがないのではないかという錯覚に陥りそうになる。

 

 

けど、良くも悪くも、私たちは人間だ。

スーパーの特売詰め放題で得ることのできるニンジンの本数がだいたい決まっているように、ポケモンが覚えることの出来る技が4つしかないように、一人の人間が持つことのできる「モノ」にはある程度の限りがある。

 

それは、

 

持つことに生来的な要素が必要なモノがあったり

(人種とか容姿とか運動神経とか)

 

 

何かを得るためには何かを失わなければならない場合があったり

(時給とか)

 

モノには二面性があったり

(ニートを「‘‘職’’を持っていない」とみるか「‘‘時間的自由’’を持っている」とみるか)

 

 自分一人の努力ではどうにもこうにも得ることができないモノが存在

(人望とか運とか1日はどうあがいても24時間とか)

 

するからだ。

 

 なあーんにも制約がなくて、なんでも持ってるスーパーマン(orウーマン)なんて二次元の世界か、あるいは上流国民のなかのさらに僅かな上澄み層にしか存在しないだろう。

(私のような小市民は見たことがないけども、「悪魔の証明」ということで・・・・)

 

ほとんどの人、ほとんどの凡人が持てるモノには限りがある。

限りがあるから、「じゃあ」と私たち凡人は、できるだけ上手くやろうとする。

時にこだわり、時にあきらめ、時に誰かから強奪しながら

いつだって限られた中で、「出来るだけいいモノ」を「できるだけ沢山」持とうとする。

新聞に、雑誌に、TVに、映画に、世間話をする知人たちに、同僚に、通っている整体のお兄さんに、法事であった親戚に、居間でくつろぐ家族に、飛び込み営業をかけてきた営業マンに、本に、まとめサイトに、キュレーションサイトに、youtubeに、アルファツイッタラーに、FBに、クラスメイトに、バイト先のあの子に、サークルのあいつらに

 

「これがいい」「あれもいい」「これがいいらしい」「これが素晴らしい」

と煽られながら、それでも自分で吟味して選んでいると思い込んで

自分にとっての最高なモノをたくさんたくさん持つために

それらをカスタムし、追求する。

 

 

最高の車、最高の休暇、最高の同期、最高の仲間、最高の住居、最高のパートナー、最高の家族、最高の仕事、最高の友人、最高の人生、最高な私。

 

 

 

自分で高らかに宣言してしまえば、なんだってモノは「最高」になることはできる。

本当は持っていなくても、嘘ついて、宣言するもいい。言うだけならタダだし、バレなきゃわからない。

 

好きなだけ自分を飾りたてて、好きなだけ自分を発信出来て、好きなだけ好きなモノの情報を集めることの出来る現代において、

最高のモノをたくさん持った「最高キメラ」

「持つ者」になるのは案外、たやすい。

 

 

 

でも、じゃあ私たちがみんな、最高のモノに囲まれて幸せなのかといえば、決してそんなことはない。

 

いちおう、私たちは社会性とか客観性とか、そういうダルいモノも持っているからだ。

だからふとした瞬間に、いとも簡単に「最高ハイ」から目が覚めて、正気を取り戻してしまう。

 

それは深夜のTLでだったり、混雑する電車の中でだったり、職場で入居者からゲボ吐きかけられた時だったり、学校の食堂でよっ友からスルーされたときだったり、隣の奥さんの旦那の年収を知ってしまった井戸端会議でだったり、まるで自分がいないもののようにあつかわれた婚活・合コン会場でだったり、家の廊下に昨晩深夜徘徊した家族のうんこが落ちていてそれを踏んでしまったときだったり、いくらアピールしてもいくらニコニコしても自分のほうには顔を向けず隣に座る東大生のほうしか見ない面接官と対峙する集団面接の場であったり。

 

 

 

最高の容姿をもった最高の自分だと思ってたけど、全然(彼氏・彼女or結婚)できない。最高じゃない。

 

最高の能力と最高の魅力を持った最高の人間だと思っていたけど、全然就職できない。

 

最高の同期と最高の仕事をしているつもりだったけど、あいつに比べて待遇が悪すぎる。最高じゃない。

 

最高の伴侶と最高の結婚をして最高の家庭を築いたつもりだったけど、FBでみた同級生の配偶者の方がルックスがいいし、住んでる場所がいいし、家もきれいな新築だし、子どもも可愛いし、いいねもいっぱいもらっている。最高じゃない。

 

 

 普段は「持っている者」だと思っていた「自分」という存在が揺らいだとき

つまり、自分が「持っていないモノ」をがあると気がついたとき

自分が途方もなく「持たざる者」だと気がついたとき

 

私たちは、怒りや、悲しみや、憎しみや、妬みや、恐れや、恥ずかしさや、情けなさに溺れてしまう。

 

溺れるだけならばまだ良い。

問題は溺れすぎて、溺れすぎて、口から鼻から耳からそういった感情がたくさん入ってきて、息が出来なくなって、身体を、激情に支配されてしまった場合だ。

 

 

 

 

激情というエネルギーをうちへうちへ、自分自身へと向けるのか

 

あるいは外へ外へ、自分以外の世界へと向けるのか

 

 

 

 自分を殺すのか、他者を殺すのか

 

 

この究極の二者択一は、決してフィクションの中だけではなくて、現実でも行われてきているし、いま、どこかでもきっと行われているし、これから先のどこかで行われることになるかもしれない。



どちらも絶対にしません、と言い切れる人が、はたしてこの世の中に幾人いるのだろう。

どちらの二者択一にも絶対に巻き込まれたりしないと言い切れる人が、果たしてこの世の中には幾人いるのだろう。

 

 

 

最近私は本当にわからないことがある。


自分を殺すのか、他人を殺すのか。

 

自分を殺さずにはいられない人

誰かを殺せずにはいられない人

 

そういった選択に向き合っている人とエンカウントした際に、私個人は、果たしてどのような対応をとればいいのだろうか。どんな行動をとればいいのだろうか。

 

そういったことがわからなくて、だからずっと、どうすればいいのかを考えている。



持たざる者を見つめている時、おそらく持たざる者もまたこちらを見つめている。


私が持たざる彼らに出会った時

あるいは私が持たざる者になった時


私は彼らや、自分自身をどんなまなざしで見つめることになるのだろう。

最近はそればかりを考えている。