斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

髪をおろした女の子のはなし

金曜日の池袋だった。

池袋西武沿いの大通りを、スマホの地図片手にのそのそと歩いているときに、横から、見知った声に囁かれた。

「今日上がる前給湯室よったらさ」

同じ部署の同期Yちゃんだった。いつのまにか隣に来ていたことに驚きながら、スマホをスーツの内ポケットにしまいつつ、潜めた声に倣って体をそれとなく、彼女の方へ傾ける。

少し先を行く幹事役が、スマホ片手に新入社員の集団を先導しているのが見えたり、見えなくなったりしていた。雑踏の切れ間から浮かんだり消えたりする、少しだけシワの目だってきたリクルートスーツの集団や、浮き足立った足取りが、どことなく視界からぼんやり霞んで行くような気がする。
彼女は前方の集団を一瞥すると、いくぶんか声量をあげて、続けた。

「大川さんに声かけられて」
「へーなんて」
「これからお出かけなのって。研修中の新入社員と懇親飲みですっていったらさ」

そこで彼女は一息置いて

「なんか、今度入ってくる子がどんな子なのか教えてね、って言われたわ」

はーと私は息を吐きながらついでに声を出して、しばらく間延びした声とも音とも言えない何かを発し続けたあと、早口でなるほどねとだけ続けた。

「こう言って来たのって実質さ、あの子のことじゃん。大川さんのところの部署に配属されるのってあの子だけだもん」
「まあそうだろうね」
「はいわかりましたーとだけは言っといたけど」
「正直めんどい感じじゃん」
「でもさー私やばいと思うんだよね、あの子」
「それは私も思うわ」

2人揃って、前方をそろりそろりとうかがい見る。
リクルートスーツの集団の中で、ぼんやりとした夢の中みたいな足取りで歩く1人の女の子、真っ暗な髪をうなじ近くで一つにくくった黒いスーツの彼女を見つめながら、私は、腹ただしいような呆れたような心配なような羨ましいようなそんな気持ちに苛まれながら、フラフラと覚束なく、慣れないヒールで、点滅する青信号に焦りながら、横断歩道を小走りでどうにか渡りきったのだった。




最初に違和感を訴えて来たのは、同じフロアの他部署の同期Rからだった。

「あの子、変わってると思う」

地下フロアのトイレは、白熱灯に照らされていてもいつもどこか薄暗く、閉塞的である。
3つ並んだ手洗い洗面台の、向かって1番右。女子ロッカーの1番近くの特等席で、しゃがれた声を出しながら、その子はサラサラのアッシュ系の茶髪に綺麗に映える、落ち着いたピンク色のアイシャドウを塗り直していた。

「あー」

矯正器の合間をぬって歯ブラシをゴシゴシとしながら、緩めた口の端から返答にもなれないような声を上げる。フロアに入っても挨拶らしきものを誰に対してもしないなとか、他の新入社員の女の子と口を聞いたりしないな、とか、いつもどこかすましたような、というか、クリッとしていつもブラウン系のアイシャドウで綺麗に縁取られた、でもどこか虚ろな大きな目とか、クリームがかった色白の肌に包まれたほっぺたはピクリともせず大抵はのっぺらぼうだとか、ツンと形の良い高い鼻が随分小ぶりなこととか、そういうことが走馬灯のように頭に流れてきて、なんとも言えない気持ちになった。

「よくわかんなさはある」

今自分に起こっている感情含めそのように返すと、あーねとだけ声が帰ってきて、トイレにしばらく沈黙が流れた。

あ、

沈黙の中、歯ブラシをシャコシャコしながら、あっと気がついた。鏡越しに彼女を見ると、彼女もあっという顔をしている。
2人で鏡越しにアイコンタクトを交わしたほんの数秒後、カッカッカッと、さっき気がついた音がさらに大きくなったのが聞こえた。誰かがヒールでこちらに歩いてくる音だった。

鏡越しに黒い人影を見る。

件の彼女だった。
黒い長髪をうなじのところで1つにして、白いタオル地のハンカチを片手に、こちらを一瞥することもなく個室に入ろうとしていた。

「お疲れ様です」

ほぼ反射のように声をかけていた。
お疲れ様です、と消えいるような声が彼女から帰ってくる。

「お疲れ様です」

Rも彼女に声をかける。
彼女は数秒、固まって同期の方を見たあと、少し肩を強張らせて、何事もなかったかのように個室に入っていった。

ほうほう、はーという顔をするRと一緒に
あはははという顔をしてトイレを足早に立ち去った。





4月が始まってまだそんなにたっていなかったころ、散りかけの桜を少しでも愛でたいと会社の近くの公園でご飯を食べていた時期があった。
どこからやってくるのか、普段はがらんどうな石畳の広場には何軒かの的屋が立ち並び、子どもや、近隣の大学生の集団らや、おじいさんおばあさんの集団らが、楽しそうに散りかけの桜が舞う公園を行き交っていた。

花粉症を極度に恐れるYちゃんはオフィスで食べたいというので、意図に賛同してくれたRと一緒に、桜並木から少し離れたベンチに座り、もそもそと家から持ってきたお弁当を食べる。
昨日自炊したご飯(チキンのトマト煮。オシャレすぎる)の残りを詰めたお弁当を食べるRが話してくる同棲中の彼氏とのあれそれを、なるほどなるほどお気持ちだ…と聞いていると、こちらに近づく人影があるのに気がついた。


「あっ、お疲れ様です」

Rと2人、どちらともなく声を出して軽く頭を下げた。

ああお疲れ様と返され、私も一緒に食べて良い?と続けられたので、もちろんですとRが返す。
ありがとう、と言いながら、近づいてきた人ー大川さんはベンチに腰掛けて足を組んだ。

大川さんが派遣社員だと知った時、私は結構な衝撃を受けた。
オフィスの女の情報をたくさん仕入れるのが生きがいみたいな男は、世にはそれなりにいるらしく、Rの上司はその手の人種らしい。会社にいるそんなに少ない女性社員が派遣社員か正社員か、ケッコンしてるかしてないか、リコンしてるかしてないか、カレシはいるのかいないのか、といったおおよその情報をRは上司からくどくどと叩き込まれ、記号じみた情報たちはちょうど去年のGW明けくらいから私とYちゃんのもとにもRの口からポツポツと流れてきて、2人で都度驚いたものだった。

大川さんは、幾らか肉付きのいい、でもいかにも秋田美人というような品のある佇まいをした少し年配の女の人だった。
いつもは優しいし、なんでも知ってるし、質問したら丁寧に答えてくれるし、色々な気配りをしてくれるし、でもその気配りが態とらしくなく、偉いおじさん達から絶大な信頼を得ているのだけど、たまにふっと冷たい目をすることがある、そんな人だった。
Yちゃんは大川さんのことが割と苦手なので、タイミング良くてよかったな、なんて人のことを考えていたら、すでに始まっていた大川さんとRの会話を聞き逃していた。

「ね、でさ!かしわぎちゃんはどうなの?」
「えっ?」
「だからさ!彼氏いるの?彼氏!」

えっ割とパーソナルな話を席ついて僅かの間にしていたの?と驚いてしまい、Rの方を見る。Rは以前大川さんに彼氏との話をして痛い目にあったことはなんとなく聞いていた。案の定、なんとも言えない表情をしていたので、あらかたのことを察し、どことなく様子を伺うことにした。

「あはは〜」

笑ってごまかしていると、視線が少しだけきつくなった気がして、なるほど、なるほどねと思う。
視界の端を昔懐かしいキックボードを走らせた子供が横切る。

「えっ、なになに?言わない感じ?」

普段のおっとりな喋り方とは違う、早口でまくしたてるようなその姿に、確信の情報を与えず周辺のどうでも良い情報を小出しに与えて服従を見せた方が良いと直感した。仕方なく今付き合っている人の話を適度にぼやかしながら、二、三する。

「うらやまし」要素が発生することはすなわち地雷のような気がしたし、聞いたらすぐ他の人に話したくなるような「おもしろ」要素があることもはばかられるような気がした。
結局、ぼんくらな男と月一で会う彼氏のことはそんなに好きではないよくわからない不思議ちゃんな女、という設定で情報を提供したところ、大川さんの興味はこの場にいないYちゃんの色恋沙汰の有無になり、Rと2人で適当にYちゃんの話をごまかした。

しばらくしてタバコを吸いに立ち去った大川さん背中を見つめながら、Rと2人でどちらからともなく言い合う。

「うちら、あれが、あれで正解だよね?」









幹事役のセンスが冴え渡っていたのか、歓迎会の店はとても良い雰囲気の隠れ家バルだった。
二階席がワンフロアぶち抜きのロフトみたいになっていて、大人数でもくつろげそうである。
行きの電車でそれとなく決めた席順で新入社員を並べ、間に同期達が座る。

女性の一般職くくりである私とYちゃんと彼女の席はもちろん近い。
私とYちゃんが横並びで、机を挟んで前が彼女、そして、彼女の横にはRが座った。

酒が入ってくると、各々限度を超えない程度に好き勝手なことを言いはじめる。
調子に乗り始めた数名の子達をはいはい、と見つめていると、幹事の同期がいきなり会社の闇話をぶっ込んできた。

「てかさ!みんな知ってる?!あのさ、ほら下村さんの話!」

うっわまじかよこいつというお気持ちを露骨にだしたRの顔が面白すぎて少し吹き出してしまう。キョトンとしている新入社員に、Yちゃんがやれやれとたりない言葉を補う。

「ほら広報の女の人、いるでしょ、下村さんってその人のことだよ」

以外にも、Yちゃんの言葉に一番はじめに反応を返してきたのは彼女だった。

「あっ、知ってます。社内報とか出してる人」

それまでずっと黙っていた彼女が声を発したことに少しだけ驚く。顔は相変わらず強張っていて、目が虚で頬がひくりとも動かない。

「そうそう、その人がね、まー得意先のね
社長の令嬢なわけよ。あー、まーそんでさ」

Yちゃんはポツポツと下村さんの武勇伝を語り出す。あまりにもあまりにもな数々は
私たちが体験したことでもあり私たちじゃない誰かが体験したことでもあったが、各々の話はまま刺激が強く、どこのメロスでも激怒するような邪智暴虐さがあった。ロフトにいた面々はしばらく沈黙してしまい、バルの喧騒がどこか遠くに感じられた。

「ま、うちの会社はね、そういうなんていうの?コネが多いからさ、そういうのは気をつけたほうがいいよ、意外な人間が実は力持ってたとかあるあるだからね」

Yちゃんが締める。

しばらく沈黙が続いたが、気を利かした体育会系の新入社員が、自分のサークルにいた理不尽な先輩の笑い話をして場を和ませる。
マジであいつ空気読めねえと話の発端となった同期の幹事に呆れたの視線を向けるRをまあまあと視線でなだめていると、向かいの席の彼女が、ポツリポツリと近くの席の私たちにだけ聞こえるような声量で、口を開いた。

「そうですよね、会社っていろんな人がいるんですよね」

それは自分に言い聞かせているような言葉にも、私たちに対する同意を示す言葉にも、社会に対する服従を表す言葉にも聞こえて、私とYちゃんはじっと彼女を見つめる。

「なんか、配属されたら、オフィスカジュアルでいいよ、とか、就活じゃないんだから、そんな硬くならないでとか、言われるんですけど」

言葉を選ぶように、探り探り話す姿は、非常に見覚えがあった。私にとっては、人ごとではない。

「髪の毛とかも、本当は、おろしたいな、とか思ってて、ははは」

そこまで言って、彼女は少しだけ、はにかんで笑った。のっぺらぼうだった頬が少しこんもりと盛り上がって、虚な目が、一瞬、細められて、小さい歯が口から覗く。
可愛い顔だなと、私は思った。

「いいじゃん!いいじゃん!」

RもYちゃんも私も、誰からともなく言い出していた。

「おろせばいいんだよ、好きにすればいいんだよ。本当ね、大人って意外とみんな好き勝手やってるんだから、髪下ろすくらいいいんだよ、自分の似合う格好、自分の好きな格好すればいいんだよ!」

気がついたら私はアホみたいに饒舌にそのようなことを割と大きな声で口に出していた。

彼女は少しびっくりした顔をした後、また顔を強張らせて、そうですね、と言って、少し俯いたのだった。








歓迎会が終わった次の日の朝、デスクに座ってダラダラとメールを見ていると、誰にも挨拶せずフロアに出勤してくる彼女を見かけて、あっと思った。

おろした長い黒髪が、少しシワのできた黒のリクルートスーツにサラサラと揺れている。

いいじゃんいいじゃん。
そう思った。彼女は誰にも挨拶をすることなく、研修室に音もなく滑り込んで行く。

私は保温マグからティーバックでいれた紅茶をすすすと飲む。

いいじゃんいいじゃん。

大川さんのことも、下村さんのことも、記号大好きなRの上司のことも、全てが遠のいていくのを、嬉々として感じていた。