斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

救われちゃったひと

小中学校の同級生に、斎藤くん(仮名以下略)という男の子がいた。

小学二年生のクラス替えで、私と斎藤くんは同じクラスになり、出席番号が近かった私たちは、なんやかんやで、他愛もない話をしたり、一緒に遊ぶようになった。

 

斎藤くんは、大家族の長男で、小柄なおとなしい男の子だった。

色が白く、発話がどこか舌足らずで、縄跳びが上手くて、クラスの縄跳び四天王で、リコーダーを吹くのが好き。勉強はあまり得意ではなくて、担任の大島先生に授業中指されるたび、はにかみながら、舌足らずな声でよくこう言った。「わかんない」。

 

私たちは、斎藤くんと、出席番号の近い佐々木くん(仮名以下略)を交えて、三人でたまに遊んだりした。

私はそこで、キン肉マン二世というめちゃおもしろアニメがあって男の子たちはみんなそれを見てるらしい、ということを学んだ。駄菓子屋へ行ったりもした。佐々木くんから仙台のおばあちゃんちにいってきたからと笹かまぼこをもらって、それを三人で食べたりした。斎藤くんの家の近くの公園で遊んだこともあった。そんなこともあった。

 

 

 

小学三年生の時のクラス替えで私たちは別々のクラスになり、それ以降斎藤くんとは疎遠になった。高学年になるころには自分のクラスと隣のクラスが無事に学級崩壊。危機感をもった子たち(佐々木君含む)がそれなりの割合で「お受験」エスケープをかますのを横目で伺いながら、私と斎藤くんはろくにお互いを視界に入れないまま、地元の馬鹿公立中へと無事に出荷されていったのだった。

 

 

 

 

それからしばらくして、中学三年のクラス替えで、私は再び斎藤くんと教室の中で再会した。

私は、卑屈な顔で宙を睨む不細工な文学少女、斎藤くんは、結構重めのいじられキャラへとサイコーなメガシンカをキメていた。

 

斎藤くんを重めにいじっていたのは、一般的に「優等生」と分類されるような男子生徒たちだった。

通信簿が(馬鹿校での評価なんてたかが知れているが)4か5で、推薦で進学校への入学が決まっていて、サッカー部で、女子中学生基準でいうところの「イケメン」で、そんな連中が、退屈な生活の片手間に、ねちっこく斎藤くんや(奴ら基準で)斎藤くんに準じる存在の子たちをいじっていた。教師の前でもそれは「お構いなく」行われていた。でも教師たちは斎藤くんたちに「お構い」をすることは、なかった。私の見た所、ただの一度もなかった。

 

「お前は本当に馬鹿だよな、なんでこんなのも分からないの?」

「昨日の晩何やってた?俺は塾行ってたけど、お前はどうせゲームでもしてたんだろ、馬鹿は気楽でいいな」

「お前ゲームしか取柄ないな、何で生きてんの?」

 

斎藤くんは、絶対に言い返さなかった。したったらずなあの声を私が再び聞くことはなかった。卑屈な笑顔を浮かべる斎藤くんを私はただ、何もせずに見ていた。私も教師達と同じだった。あるいは、「イケメン」が「つまんない奴ら」を「面白くイジっている」のを見て、やばーい何言っちゃってんのーウケるーと笑う女バレ集団と同じだった。私は何もせず、卑屈な顔をして、フックにつるされた体育館履きが整列するシミのある漆喰の壁を、ただただ一人できもい顔しながらにらみつけることしかできなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

映画『ジョーカー』を見ました

先日、会社の近くの映画館で『ジョーカー』を見た。

 

プラスチックのコップに入ったバカ高いビールを素材の味を生かした65点のバカ高いホットドックで流し込みながら、厭世を深める2時間を過ごす・・・という浅はかな予定はおもちゃ箱ひっくり返したみたいにめちゃめちゃに崩壊し、気がつくと私は、エンドロール前の、あの、画面が、一面真っ白な光につつまれるロングショットのシーンで、肩を震わせて泣きながら、あっけにとられて手をつけられなかったビールを一気飲みしていた。

とんでもないものを見てしまった、とんでもないものを見てしまった、とうわごとのように頭の中で呟きながら、劇場を出て、帰路につく。頭の中の言葉は、こうも続けた。「ジョーカーのおっさん、救われちゃったよ」「ジョーカーのおっさん、救われちゃったんだけど」

 

 

 

そう、あの映画の中で、ジョーカーのおっさんは確かに「救われちゃった」のだ。

私は、ジョーカーのおっさんが「救われちゃ」うところを確かに見て、戦慄した。

それは、畏怖であり、悲しみであり、尊敬であり、絶望であり、希望であるような気がしたが、でもそのどれでもないような気もした。

私は、その「どれでもないような、よくわからないけどヤバい戦慄」を俯瞰でよくよく眺めて、手に取り、気がついて、あ、これってもしかして、と、驚愕した。

 

あ、これ、たぶん、人間が、はじめて「奇跡」を見て、なんらかの信仰にめざめた時のそれ、なんじゃね?

 

ジョーカーの「おっさん」

映画をはじめとした物語コンテンツは、それがどんなに技術的に優れていたとしても(写実的で精巧なデッサンの漫画・作中人物の心情をありありと浮かび上がらせる文章・見る者の琴線に触れる俳優の熱演とか)、見るものとコンテンツの間には越えられない壁がある。

その壁は、例えば映画であれば、私たちが誰かと映画を見に行って、作品を鑑賞をして、 エンドロールの後に席を立って、座りっぱなしだったから、いくらかたどたどしく、シアターの出口に向かって歩く時に、ふとした言葉として現れて、あっという間に大きなものとなって、そびえたつ。

 

「これ(今見た映画)、やばかったね」

「それな」

 

 

ド迫力映像のスプラッタ・ホラー映画。陰鬱とした画面に血まみれ肉片、でも私たちはエンドロールが終わって、薄暗いシアター室を出れば、フカフカの絨毯が広がる明るい商業施設が目前に広がっていることを知っている。叫んだらのど渇いたね、向かいのドトールに入って何か飲もう。

 

苦難を乗り越えて、経済・名誉、何かしらの栄光を得るサクセスストーリー。勇気とリスクを抱えて果敢に挑戦する主人公の姿に私たちは胸を打たれるが、休日明けの月曜日には満員電車の中で代わり映えのしない中づり広告を何の感慨もなく眺めている。脱毛しましょう、英会話教室に通いましょう、マンションを買いましょう、芸能人の疑惑をみんなで追求しましょう。

 

物語世界の中に起きた快も不快も、私たちにとっては所詮他人事だ。

しかしながら、物語コンテンツは、複数の条件が重なり合うことによって、見るものと物語世界との境界線をいとも簡単に飛び越えてくることがある。

 

本作『ジョーカー』において、埋めがたい溝のある二つの世界の架け橋となるのが、作中の中で抑圧されて、拒絶されて、軽んじられて、僅かに手の内に持っている何かすら奪われ続けたアーサーと、その彼が、自身を抑圧するすべて、自身を拒絶するすべて、自身を軽んじるすべて、僅かに自分の手の内にある「何か」ありったけ、丸ごと捨て去って到達した際に出現したジョーカーという、二人のキャラクターである。

 

この映画をみた少なからずの観客は、ジョーカーに対してどこか心当たりがあって、アーサーに対してどこか見覚えがある。少なくとも私にはそれらがある。

前者は流し見をしていたテレビのニュース番組で、休日朝寝ぼけた頭で見たワイドショーで、興味本位でサーフィンしていたインターネットの海の中のだれが書いたかもわからない記事の中で。後者は、自分たちが過ごすコミュニティの、隅で何も言わずにただそこにいた今はもうどうなっているのかもわからないあの人、あるいは、大きな乗換駅のコンコースの隅で裸足でうずくまっていたあの人。

道コンテンツのひとつとして、公衆放送コンテンツのひとつとして、どのような専門知識があるのかいまいちわからないコメンテーターに大声で叫ばれる名前のある誰か。誰もがいないものとしてなかったことみたいにされる名前も分らない誰か、いや、違う。斎藤くんだ。あの時、あの、シャーペンの折れた芯で汚れたリノリウムの床と、ノートをとろうと体重をかけるとがたがた揺れる古い机たちと、禿げた漆喰の壁に覆われていたあのしょうもない箱のなかで誰にも何にも言い返さなかった斎藤くん、誰もからいない者としてなかったことみたいにされていた斎藤くん。

私は、斎藤くんに対しても、「名前のある誰か」に対しても、いつかどこかで見かける「名前のない誰か」に対しても、いつかどこかで私が誰かに言われたみたいに、口には出さないけど、こんなことを、どこかで思っていた、「あなたと私はちがいます、あなたと私たちはちがいます」と。でもそれと同時にいつかどこかで誰かに言われた言葉を思い出す。「なんかかしわぎって変わってるよな、宗教とか立ち上げそうな感じ笑。怖いんだけど笑」。「私、友達はみんなかわいい子だけにしたいんだよね、かしわぎはなんていうか、あはは、別枠なんだけど」

 

映画という物語世界を見ながら、私たちは心当たりのあるジョーカーをみて、見覚えのあるアーサーを見る。その時、映画を見ている私たちの目に映るピエロ男は「アメリカンコミックのマーベル作品の中に登場する人気の高いサイコパスキャラのジョーカー」ではない。「最近タバコ屋の向かいの家のおっさんよく見ないなと思ったら、やらかして警察に捕まったらしいよ、怖くね?」「いつも○○駅で乗り込んでくるあのおっさん、電車乗るとずっと独り言言っているよね、謎じゃない?」というような、なにかしらの属性をもった、私たちと同じありふれた町のありふれた生活の中にいる、名前があったり、名前が無かったりする、でも決して私たちとは深く関わることはない「成人男性」、「おっさん」、その人である 。

 

 

 

 

 

誰もがアーサーやジョーカーのおっさんになり得ると思っている。ー本当に?

コンテンツの世界と観客の世界の境界があいまいになったとよく起きる現象の一つに、観客がコンテンツ世界の人間と「同一化」してしまう、というのがある。え!こいつの考えてること、わかる!え!コイツってウチじゃん!となるアレだ。

私は、映画『勝手にふるえてろ』がかなり好きだ。この映画の好きなシーンの一つに、自我と自意識の中の他者像のなかでモダモダしている主人公ヨシカが、自我が肥大化しすぎるあまり、歴史上の偉人であるジャンヌダルクと中小企業ペーペーOLである自分を比べて「私は何もできていない」と泣き叫ぶシーンがある。

いや、お前、何を言ってんの、土俵がちがうよ、生きてる世界が違うじゃん、と、まあ普通に考えればそうなる。でも同一化の渦中にいる人間にはそんな正論というのは通じない。主観の渦の中に飲み込まれた思考の中で、狂ったように「それな」と叫ぶ。過去の自分に起きた由なしごとが頭の中を駆け巡って、わーーーーーとなる。こうなった人間というのは始末におえなくて、でもこの「それな」はどこか中毒性があって、歳をとるにつれて「それな」の閾値は減っていくけど、性懲りもなく、「それな」を求める民、というのは世の中に一定数いる、ような気がする。

 

映画『ジョーカー』を見た人たちの感想の中にも、「それな」の民による感想というものがままある。それらはもちろん個人差があるものの、要約すると「自分もアーサーのような立場になったらジョーカーになってしまう可能性がないとは言い切れない」というものが多いように見受けられる。

 

凡人でもなんとなく気がつくぐらい、世界が変わるスピードというものは信じられないような加速をしてきている。

ついこの前のプロジェクトXでは「大企業のエリート開発者がデジカメ開発で四苦八苦!男たちは立ち上がり、何十年ごしに商品化を実現した!」とかいってたのにこの2019年では高機能カメラを搭載した新型iPhoneが数年毎に新発売されていやーカメラが3つあると映えるわーと三角関数もよくわかってない消費者が超世界的巨大企業を礼賛するのが当たり前の風景になった。

凡人が何かを習得したり、ある分野について完全に理解をするのにかかる時間の総数というのはおそらくほとんど変わっていないのに、どういうわけか、世界が変わるスピードだけ速くなって、早くなって、はやくなっている。気がついたら人間の脳よりはやくものを考えるAIが表れて、私たち人間は、特に大きな利益の生まれない死んだブルーオーシャンのなかで従来の職人芸業務をRPA化するための人力調査班(実際に調査できる保証はない)となるか、既存の他と比べるとまだ人権を保障されていた労働をAI様に献上するか、AI様以下の待遇でのファスト・労働をキメていくかの選択を強いられることになる、のはきっとみんな、薄々感じている。

 

だから、アーサーの立場が「わかる」と言う。

経済的に困窮して、資本主義社会から「いらない」と言われて、存在がなかったことにされて、絞りようのないところをさらに搾取されるアーサーの立場。そんな姿に、未来の、逃げ切れたか逃げ切れなかったか不確かな自分自身の姿を重ねて「わかる」と納得するのである。

 

しかしながら、でも、でも本当に仮にアーサーになった私たちは「ジョーカーのおっさん」になり得るのか、と考えるとどうしても、私にはひっかかりが残る。

このひっかかりは、ジョーカーのおっさんが「救われちゃった」ときのあの衝撃に由来する。

 

 

 

人が「救われちゃう」ときとはいつか

 映画の前半→中盤→後半→エンド直前に渡り、劇中でアーサーあるいはジョーカーのおっさんは、自身と世界・社会とのかかわり方を微妙に変化させていっているように見えた。

 

アーサーがまだ善悪の価値観を持ち「ハッピーちゃん」として世界や社会から搾取されていた前半。このときのアーサーは、愚直に、誠実に、世界や他者とのつながりを求めている。

 

公共施設の雑然としたカウンセリングルームで、現場最前線の野良カウンセラーに語る「僕の話をきけ」。

マレーのトークショーの観覧席から「お父さんみたいな」マレーに自分を見つけてもらって、人々から称賛される夢想。

小人症の同僚が、太った自分よりがたいのいい同僚に揶揄された際にした同調のための大きな声の愛想笑いと拳銃を手渡されたときの強く断ることもできないへらへらとした表情。

 

しかし失業・投薬中止・暴行に対する過剰防衛による殺人・その殺人を「世の中が正当化」する、と様々な要素がつながっていく中盤では、アーサーはいびつな形でつながり始めた自身と社会とのつながりに薄ら暗い喜びを見出し始める。

 

殺人ピエロが取り上げられた新聞を立ち止まって見入る

街角のタクシーの中に、デモ隊の中に、自身と同じ「ピエロ」を見つける

それまでただ遠くから見つめるだけだったシングルマザーの女との人間関係の構築

老いた母親の口からきいた「本当の父親の名前」

意を決したライブハウスでのネタ披露とその後の思いもよらない反響

 

投薬中断の影響が冷蔵庫に入るといった奇行として発現しつつも、アーサーはまだ「社会とつながる」ことが幸せなことで、自分がそれまでずっと求めていたけどかなわないものであったと信じてやまない。しかしこの信仰は、自身の生い立ち(とおぼしきもの)が判明する終盤以降に一気に崩壊し、ここでアーサーの心象世界では、おそらく社会に生きる男アーサーとジョーカーのおっさんとの一騎打ちが起きる。

 

マレーのTVショーで自殺することによって、自身の中にいるジョーカーのおっさん共々に、「嫌いになれなかった世界」から潔く退場しようとしたアーサーだったが、マレーにはアーサーに社会から注目されて何かを成し遂げるための舞台を提供した覚えなんてさらさらなく、アーサーはそれに気がついて、マレーを、父親を銃で殺す。

 

そこからやっとのことでめざめたジョーカーのおっさんは、アーサーの弔い合戦と言わんばかりに世の中をめちゃくちゃにして、めちゃくちゃにして、めちゃくちゃにする。

ジョーカーのおっさんはそこでやっと満足して、そして最後のラストシーン、「救われちゃ」うラストシーンへとつながるのである。

 

真っ白い、おそらく精神病棟内のカウンセリングルーム。

拘束着を着たジョーカーのおっさんは、劇中でみたことがない、心の底から楽しそうな顔で笑っている。

自身が監禁されていて、これから耐え切れない苦痛を伴った刑事罰を与えられるかもしれないのに、不安は一切なく、楽しくて、楽しくて、笑いがとまらないという様子を、慈悲の表情を張り付けたえらく身なりの良いカウンセラーらしき妙齢の女が見つめている。

カウンセラーの女が、ジョーカーのおっさんに聞く。

「何がおもしろいの?」

 

それに対してジョーカーのおっさんはこう答えるのだ。

 

「お前にはわからないよ」

 

 

私はこの言葉を、映画の世界の向こう側から、こちらの世界から見た時に、あーーーーーーーージョーカーのおっさん、「救われちゃった」よーーーーーーーと叫びそうになった。

 

ジョーカーのおっさんは、心優しきアーサーでは到達できなかった世界へ到達したのだ。それは、善も悪も、社会も、世も、すべてを捨てて、自分自身の主観の中だけで生きる、という世界である。

不安がなくて、不満もなくて、納得していて、怒りもなくて、劣等感に苛まれることもなく、他者からの不用意な不確実な「意味づけ」からも解放される。あらゆる人として生きるための苦しみから解き放たれた世界のなかで、たった一人で生きる。これは、途方もない救済である。

 

この救済は、公共施設の、雑然としたカウンセリングルームの中にいた、非正規雇用の野良カウンセラーでも、身なりの良い、おそらく学会を牛耳る偉カウンセラーでも、ウェイン社の末端社畜でも、つるんでいキリ散らかすストリートクソガキでも、毅然としたシングルマザーでも、狡猾で太ったピエロ男でも、小人症の温かい男でも、デモ隊に囲まれた豪奢な劇場で、自分たちだけは助かっているなんて思いながらモダンタイムスを鑑賞する連中でも、自らの中の暴力性を発散させて暴徒化する市民たちでもなく、ジョーカーのおっさんにのみ降りかかる。この腐った世の中でたったひとり、アーサーという一人の人間の人格と一緒に一緒にすべてを―老いた母とのみじめだが穏やかな食卓を、凛としたシングルマザーの女を遠くで見つめる憧れの心も、小人症の同僚と育む人目を気にした友愛も、ピエロとして人々を楽しませるために生きるという美しい信条も―捨てたジョーカーのおっさんだけが解放されちゃうのである。「救われちゃった」のである。

 

 

ジョーカーのおっさんが「救われちゃった」あと、エンドロールで、ジョーカーのおっさんがよたよたと真っ白い精神病棟の廊下を光の指す方に向かって歩くロングショットで、私は頭の中に浮かぶ何人かの人たちに問いかけていた。

 

アーサー、あなたは本当は「救われちゃ」いたかったんですか、それとも。

 

ジョーカーのおっさん、「救われちゃ」うのはあなたの本当の望みだったのですか、それとも。

 

斎藤くん、元気ですか。今何してますか。ところで、斎藤くんは「救われちゃ」いたいですか?それとも。

 

私は、私自身は、本当に本当は「救われちゃ」いたいのですか。それとも。

 

 

救われちゃったひととそうでないものの間には、両者を隔てるための大きな川がきっと、流れている。さながら三途のなんたら、というところか。

 

拷問の果てに十字架と一緒にこの世界のすべての罪を背負って「救われちゃった」らしい誰か、と、痩せこけてボロボロになりながらも「救われちゃった」ジョーカーのおっさんの背中。その背中たちを呆然と見つめながら、川の向こう岸にいる私は、自身の背後に広がる途方もない地獄に絶望して、ただただ、川の向こうの二人の横に、まさか斎藤くんがいやしないか、と探し続けている。