斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

私の「彼」

私は異性と親密な関係になったことがないのでわかりかねるけれど、でもきっと愛憎いりまじるというのはこういう感情なのだろうなとは思っている。

 

彼は三人きょうだいの末っ子として生まれた。

上には姉が二人。おしとやかで体が弱いが頭の良い長姉と、活発でこれまた頭の良い次姉に続いて生まれた待望の男の子であった。彼の父は息子の誕生を大層喜んで、自身の名前から一文字とった猛々しい名前をつけた。

 

名前負けなのかはたまた名前勝ちなのか。彼はとても健やかに、可愛らしく成長していった。彼の一家が居を構えていた土地は一応は首都圏と言える場所にあったものの、当時はさかのぼること半世紀前の話である。

まだ開発が進まず、葦のおおいしげる野っぱらと畑と田んぼばかり広がるのどかな郊外。郊外といっても、今とは違ってジャスコも、イオンも、しまむらユニクロもGUもない。そこで、可愛い顔をして元お針子の母お手製の綺麗な洒落た服に身を包んでいた彼は、ちょっとしたご近所のアイドルであった。

 

田園調布のおぼっちゃまみたいだね」

 

とご近所で言われるたびに、彼は照れ笑いを浮かべていたらしい。

 

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彼の父は、とある技術を持った「お役人さん」であった。

腕がよく、生真面目で、頑固で、仕事に妥協をしなかったので、あれもこれもと仕事を任されて、かなりの激務をしていたらしい。繁忙期になるとひと月の内、一日しか休みもないこともざらにあった。だから彼は、父親が家を空ける間、女兄弟二人と母と父方の祖母という、女所帯の中のちょっとした家長を任されていた。

とはいうものの、この「家長」はもっぱら彼の「自称」であり、この「お役目」を彼が得意げに口に出そうものならば、口の達者な姉たちから袋叩きにされてべそをかいていたというのだから面白く、そしていじらしい。

 

激務続きの彼の父であったが、それでもたまの休みには今でいう家族サービスを怠らなかった。生真面目で頑固だけれど、変なところで臆病だった彼の父は、車の運転免許を取ることをしなかったために一家は徒歩、あるいは開通したばかりの私鉄を乗り継いで、色々なところに赴いたという。

しかし行く場所と言えば、尾瀬だとか古墳だとか山だとか、今のナウヤングたちは見向きもしないような場所である。でもそんな場所に彼ら一家は、おにぎりとお弁当と水筒をぶら下げて、時には仲の良い近所の子どもも連れだって、わいわいがやがや賑やかな遠足に興じたらしい。

遠足一団では、彼はもっぱら「水筒係」に立候補し、任務を全うしていた。どんな「お役目」なのか?なんてことはない、一団の最後尾で皆で飲む用の大きな水筒を下げて歩き、自分の飲みたいときにそれを飲み、飲みまくり、飲みすぎ、そして休憩時に姉たちに怒られるというご立派なお役目である。

 

時が経ち、小学生になると彼は野球に夢中になった。

入った少年野球チームでは足が速くて、運動神経もそこそこよかったので、ピッチャーを任された。

チームの監督の息子を差し置いて試合で登板させてもらっていたものの、試合のここ一番というところでは必ず息子と交代させられたらしい。よくチームメイトに大量の差し入れを渡しに応援に来ていた彼の母は、その大人の事情による交代劇を見るたびに非常に悔しい思いをしたという。

見るに見かねて「あんたそれでいいの?」とある時聞いてみたところ、彼は首を振って「ううん、いいんだよ、いいんだ」と答えたらしい。彼はそういう子どもだった。

 

中学でも野球バカとして過ごした後、彼は苛烈な受験戦争を潜り抜け、浪人をすることなく、なんとか学区で2番目くらいに頭の良い公立校に滑り込んだ。

本当に、なんとか滑り込んだ有様であったのにも関わらず、彼は高校でサッカーの魅力に取りつかれ、野球バカからサッカー馬鹿に鞍替えをした。

寝ても覚めても寝ても覚めても覚めてもサッカーサッカーサッカー・・・・。

本当にサッカーしかしなかったらしい。滑り込んだのにサッカーしかしていなかったので、成績は味噌っかすだった。

でも馬鹿になるほどやりこんだだけあって、彼のサッカー部は県ベスト○位とかまでいくような結果を残せた。あほみたいに練習して、練習終わりに部員がぞろぞろと自転車に乗って彼の家までやってきて、麦茶をもらって、おしゃべりをして、帰る。そしてごくたまに、初めてできた可愛い彼女とデートをする。そんな生活をしていたという。

 

そんな有様であったから、彼は進路を決める際に担任から「体育大学にいったほうがいいんじゃないか」と言われた。

 

今思えば、おそらくここが彼の人生の分岐点であったのではないかと思う。

 

でも誰かの人生の分岐点なんて、立っているその時には知る由もない。本人も、周りも、気がついたら、振り返ってみたら、「あの時は」となるのがオチである。

 

詳しい経緯はわからないが、彼は体育大学に進学せず、彼の父と同じ「技術」をもった「お役人」になるための進学の道を選択した。

 

 

進学の道は険しいものだった。なにせ、3年間をサッカー馬鹿として浪費してしまったのである。付け加えて、今とは比べ物にならないほどの青年の人数の多さ、異常な競争率。

挙句彼の父はこう言った。「大学は絶対に国公立でなければだめだ」

 

先に述べた優秀な姉たちの影響だった。身体の弱い長姉は入院生活の間を縫って専門をでて就職したものの、健康そのものだった次姉はストレートで旧帝大に受かってしまっていた。

彼の父は学校に2時間自転車をこいで通っていたという東北のど田舎出の苦学生であったから、学歴にたいする執着が強かった。自身が私立大にしかいけなかったというコンプレックスを、子どもの進学で晴らそうとしていたのだ。

 

次姉はそれを乗り越えられたけれど、彼はなかなかそれを乗り越えることが出来なかった。現役の受験では私立しか受からなかった。一浪をした。

 

彼の母は彼の父に抗議した。いさかいが起きた。でも彼は「頑張る」といって聞かなかった。一浪後、受験をしたが結果は変わらなかった。私立だけ。もう一浪した。

 

二浪中、彼は心と身体を病んでしまった。不眠症、そしてEDになってしまったのだ。

 

まじでもう、ボロボロであった。三度目の大学受験、やっぱり私立にしか受からなかった。彼の父はもう何も言わなかった。そうして彼は3流私大に進学をすることとなった。

 

しかし鶏頭となるもという言葉よろしく、彼はおかれた場所で咲こうとした。

学部を卒業し、同大学の院へ進学。そしてそこを首席で卒業した。

大きな紙に太く立派な字で書かれた賞状。誰に何を言われようとも、彼の血と汗と涙と挫折と劣等感をぐずぐずに煮込んで作られた魂の結晶である。

 

 

 

私も彼の結晶を見たことがある。

 

それは螺鈿の飾りがついた一等立派な額縁に入れられて、父の部屋の一番目立つ場所に常に飾ってあった。とある資格の認定証と肩並べて誇らしげに飾られていたそれ。

はて、隣に飾ってあった資格はなんの資格だったっけ?もう父の部屋を整理してから随分とたってしまった。もうどうしても思い出すことができない。

 

 

 

 

ふと、自他を問わず、人の一生について思いをはせるたびに、私はとても物悲しくて、やるせなくて、どうしようもない気持ちになる。

 

それは白黒写真の中にいる「田園調布の坊ちゃん」のつぶらな瞳や、立派な額縁の螺鈿模様や、酒に溺れて酔っぱらってくだを巻いて、「長姉」、否、「私のおば」や「祖父」や「祖母」の悪口をいう父の姿を思い返すときの感情と似ている。

たくさんのなぜ?どうして?に私の気持ちは押しつぶされそうになる。

 

あの坊ちゃんが、なぜ父になったのだろう。

優しい子どもがすり減ってすり減って、すり減った「ダメな」大人になったにすぎないのだろうか。

 

ダメって何?私の父はダメだったの?

 

愛のある幼少期、好きなことに夢中になった学童期、恋に進路に思い悩んだ思春期、挫折を乗り越え何者かになろうとした青年期。

 

人生の様々な局所を能力や愛情や知恵や努力で懸命に乗り越えたとして、乗り越えられたとして、その先に一体なにがあるというのだろう。

 

同期が続々と管理職になっていく中、アル中で無職になる自分

 

「うんこ製造機なんだよ死ね」と実の娘にののしられる老いた自分

 

薬品臭い終末病棟の黄ばんだ天井

 

鼻から摂取するどろどろのチューブ食

 

すり減った先がこの末路。そう思うと私は叫びだしたくなって、泣き出したくなって、もういもしない相手に謝って、許してもらおうとして、嫌になって、絶望して、そして死にたくなる。

 

父に対する愛憎は、恋愛のそれではなく、人や人生や世界に対する愛憎に似ている。

 

なぜ?どうして?を投げかけても、帰ってくるのは理不尽さと謎とやるせなさだけ。

 

なぜ生きるの?生きるのって辛くてくるしいのに?なぜ生きるの?ねえ、生きるのが素敵って言ってよ、証明してよ、だって私死にたくないもん、死ぬのは怖いよ。

 

死人に口はなく、迷い人を救いたもう神も口を開かず、そしていくら喚こうとこの世はだんまりを決め込んいる。

 

私はそんな彼と彼らを呪ったり恨んだりたまには愛したりしながら、1日1日、自分自身をすり減らして過ごしている。