斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

アルピニスト宣言

わたしは、私たちは、日常のあらゆる場面で意思決定を迫られる。

 

「夕飯に何をたべるのか」、「休日はどこへ遊びにいくのか」といった些細なものから、進学、職業選択、結婚といった、人生の転機となる重大なものまで、意思決定の内容の幅は多岐にわたる。

 

これらの意思決定時に、なかなか避けては通れないものがある。

それは「後悔」だ。

 

 

私たちは膨大な意思選択をこなしていく中で、常に納得のいく選択をし、自分の望んだ結果を得られるとは限らない。

 

時には「これでよかったのか」と過去の意思決定を不安に思い、「もっと別の選択肢を選んだ方がよかったのではないか」と決定後の現状を悲観しながら反実仮想を想起することもあるだろうし。  

あるいは、「こんなことをしたら後々後悔してしまうのではないか」と未来を想像して怖気づき、なかなか意思決定に踏み切れないこともあるかもしれない。


 

こうしてみると、後悔とは過去志向的ー未来志向的という相反する面をもった厄介な存在であることがよくわかる。

ちなみに心理学では前者を「経験後悔」、後者は「予期的後悔」と呼ぶのであるが、

わたしはいま、「予期的後悔」の真っ只中にいる。

 

 


近ごろ、自分の下す意思決定にまったく自信も確信も持てずにいた。

内定先の選定から始まって、挙げ句の果てには今日食べる学食のメニューまで。

「転んだ先の後悔」とでもいえばいいだろうか。

 

何をするにも、自分が行うすべての意思決定が、すべて後悔につながってしまうのではないかという疑念が浮んでしまう。さらに疑念に付随して、抑うつ感情が頭を覆い尽くす。めちゃつらい。そんな状態がここのところずっと続いていた。

 

これまで

「(なんか面白そうだから)これ!!!!!!」とイノシシのように意思決定をこなしてきた我が人生であったが、

いい加減意思決定を獣から人間に進化させる必要があるということなのだろうか。と最初は思っていた。いやはや、早く人間になりたーい。闇に紛れて生きたくなーい。なんて、思っていた。

 

進化の必要性をぼちぼちと感じてはいたものの、でもどうにもならなくて、もはやなぜどうにもならないのかもわからなくて、というか、何がわからないのかもわからずにメンがヘラっていたら、友人たちが色々と話を聞いてくれた。

 

 私の友人たちは、それなりに論理的思考ができてそこそこの問題特定能力のある割とまともなメンがヘラってないひとが多い。だから、みんながみんなちゃんとしたアドバイスをくれた。

 

 

優先順位を決めるんだよ

 

自分がどうありたいか、どうなりたいかを考えるんだよ、そっから逆算して決断をしなよ

 

これだったら自分でもやっていけそうだな、自分に合いそうだなと思うものを選んだら。

 

 

 どれもこれもぐう正論だった。それなにも程があった。私はアドバイスをくれるたびにありがとうありがとうその通りだよねと赤ベコのように首を縦に振った。でも決められなかった。決めるのが怖かった。

 

そうだよねそうだよね、わかっちゃいるんだけどね、いや、わかってないのか、わかってないから決めれないのか、いやむしろわかっていることはなんだ、わかってないことはなんだ、てか、わかるってなんだ?

 

友人たちと話せば話すほどに、IQ3くらいの内省と自己理解と問題特定と論理的思考と仮説思考しかできない自分に、心底嫌気がさした。

 

と同時に、彼女らが行ってきた、あるいはこれから行うであろう意思決定の「人間らしさ」が眩しくて眩しくて。「私はこうやって決めてきたよ」と話す姿を赤ベコ猪はただただ目を細めて見つめるしかなかった。

 

 「将来は夫婦間の関係が対等で、居心地の良い家庭をつくりたい。○歳までに結婚して、子どももほしい。そして出産後しばらくブランクがあっても仕事に復帰できるような専門職につきたい、だから私は今この選択をする」

「今自分の家はこのような経済状態。なので早く自立をしたい。経済的に自立することは将来的に考えて悪いことではない。だから私は今、この選択をする」

「母親の生き方を見ていて、資格を持つことの大切さが身に染みた。加えて、自分が何者であるかの証がほしいから、だから私は今、この選択をする」

「自分は能力・体力的にこの程度の仕事が出来そうだ。最低限稼いで生きていければそれでいいし、だから私は今、この選択をする」

 

彼女たちはそれぞれいろいろと抱えていて、でも抱えているなりに前を向いて、足を止めることなく一歩一歩、意思決定をこなしてきていたし、現にこなしていた。それってとってもまぶしくて、きれいだなと、赤ベコのように頷きながら、私はほんとうにそう思った。


 そんな彼女たちと自分の意思決定の差異を比べてみて。彼女たちという人間と私という獣の意思決定の差異について、内省してみて、ここ数日で、ふと気がついたことがある。

 

彼女たちが行う「人間の人生の意思決定」とは、おそらく登山に近しい。 

自分がどこにいるのかがわかっていて、

自分が山に登りたいことがわかっていて、

どの山に登るかを決めていて、

そのための装備を準備していて、

目的地が分っているから道に迷っても、用意したコンパスを使って立て直すことができて、

登っている間も、自分がどこにいるのか、何号目に立っているのか、理解しながら足を進めている。

彼女たちにとっての意思決定とは、山頂という人生の目標やなりたい自分に向かうための一歩一歩だ。大なり小なりの意思決定は登頂のための過程に過ぎない。

 

対して、「私の人生の意思決定」は、おそらく動物の狩りに近しい。

 自分がどこにいるのかわからないけどとりあえずお腹が空いていて、

目の前に美味しそうなもの(面白そうなもの)を見つけたらそれに飛びつき追いかけて、

追いかけて追いかけて、

逃したりたまに捕まえたりして、

そして決着がついた後に周りを見渡してみるともう全然知らないところにいることに気がつき、ふりだしにもどる。


一見、目の前のものは目標に見えるけれど、それは取れたり取れなかったりして、安定はしていない。不安定だ。不安だ。なぜなら山と違って「動くもの」だから。


かといって、「もの」を取れたとしても安心はできない。取るために無我夢中で追いかけるから、方向感覚を失って、今いる場所がわからなくなってしまっているから。だからものを取れてもこう思う。


不安だ。



今いる場所がわからなくて不安だからとりあえず新しく現れた目の前のものに飛びついて、無我夢中で追いかける。繰り返す。驚くほど生産性がない。



おそらく、私の転んだ先の後悔の根源はここにあるのだろう。


不安。


自分が今いる場所がわからなくて、

自分がこれから向かう場所がわからなくて、

自分がどうなりたいのかがわからなくて、

自分の今しか見えなくて、


不安で、不安だから、自分が正しい意思決定をする姿が想像できずにいる。

目指す山が分からないから、歩きすぎて、走りすぎてマメができて、足が潰れたらどうしようかと思っている。マメができたら山小屋で休むこともできるのに、山に登っていないから、山小屋も知らない私は、足が潰れたら終わりだと思っている。



思うに、私は今、まじで人生の岐路的なところに立たされているのだろう。



私は私の山を見つけなければならない。

エベレストでも、富士山でも、高尾山でも、もはやちょっとした峠レベルでもいいのかもしれない。けど、とにかく、とにかく私は私が登る山を見つけなければならない。


狩りをして、生肉食って、口の周りを血で濡らして、えーやっぱちがうーもっとーというのはもうやめる。


私は私の山をみつけます。そして登ります。バックパックしょって、コンパス持って、登ります。


私は、アルピニストになります。