斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

キモい私は、初めてできたキモい異性の友人とキモい関係になってしまい、それが嫌になってブッチした

結構身勝手な話します。当人含め、読んで不快になる方もいるかもしれない。一応ボカシはいれている。

 
小学生以来、異性の友達がいなかった。中学では部活の男子と、業務連絡または自虐ネタでしか絡めなかった典型的喪女だったし、高校もそんな感じ。男子なんか女子の顔しか見てないし!てか何話したらいいかわかんない!でも彼氏欲しい!彼氏がいるっていうステータスがほしい!だってみんないるから!私がみんなより劣ってるなんてありえない!
と思春期は激しくこじらせていたから、いない歴=年齢、男友達0っていうのは無理もない話だった。
 
話を戻す。
 
その人は、半年前からやってるバイトで知り合った。25歳、5つ上の社員。5つ上だから結構大人かと思いきや、どう贔屓目に見ても中学生にしか見えないような人だった。いつもダボダボのよくわからんズボンにダイエーで買ったような安っぽいスニーカーをはいて、キン肉マンがプリントされた紺の肩掛けカバンに、らんま1/2のキャラクターTシャツ。
決してイケメンではないし、フツメンかと言われても、正直首をひねってしまう。というのも、青髭で剃り残しがあって、ニキビも結構あって、ほっぺがブラマヨのヒーハーしてない方みたいなかんじだったから。清潔感とか、皆無。まじで肌がクレーターだった。だから、彼への第一印象はあんまりよくなかった。なんか不潔なダサい人いるなっていうのが、やっぱ正直なところだった。
 
バイト先は超絶ブラックの飲食で、新卒社員が3年未満で半分以上やめてくような、はちゃめちゃな企業だった(notすき家)から、その人も漏れなく社畜してた。私がシフト入ってるところは必ずその人がいた。当たり前だ、この店舗に社員はその人しかいない。
一ヶ月半無休で通し勤務(早朝の開店準備〜閉店まで)。クーラのきかない灼熱の厨房。切りすぎて漆黒のタイムカード。一人で行う終わらない閉め作業。私土日の早朝〜昼ピーク過ぎまでしか入ってなかったけど、しんどくて大変そうだなってのは見ててわかったし気の毒だった。でもそれ以上でも以下でもない。ただただ気の毒だな、と。それだけだった。
 
気の毒な人から気の合う人、そしてゆくゆくは男友達兼彼氏候補(笑)に変わっていったのだが、気の合う人に変わった転機はかれこれ3〜4ヶ月前くらいだった。
きっかけとかあんまり覚えてないけど、雑談してて、なんか読書の趣味が合ったかなんか?だった気がする。それから何気なく小説書いてたっていう黒歴史を向こうが話してきて、私にももれなくその黒歴史があって、とトントン拍子に共通項が見つかっていった。
前々からおしゃべりが好きな人とは知ってたけど、打ち解けてみると話がすっごく面白い人だった。し、結構友達も多いおしゃべり好きの、人好きな性格みたいだった。お笑い好き、お互い片方の親を病気で亡くしてる、読書好き、文章書くの好き、哲学的なこと考えるの好き。共通点はそれなりにあって、会話は弾んだ。そのノリで、バイト終わりに2人でラーメン食べに行ったり、その人の休みに回転寿司行ったりした。男と2人で行くのはどれも初めての体験だった。
それでも話足りなくて深夜、LINE電話で人生の意味とは、だとか、人と人はなぜ分かり合えないのか、みたいな、先人たちに使い古された議題から、さも新発見みたいな意見をお互い披露しあって、酔いしれたりしてた。3時間くらい。暇かよ。
 
気がつけば知らず知らずのうちに依存をしていって、私は自分のことや自分の周りのことをあの人に何でも話すようになった。多分これがいけなかったんだと思う。関係性の腐敗はここから始まっていった。
友達のこと、初恋のこと、大学のこと、家のこと、今食べてるカフェのランチのこと。
女子大生のくそつまらん定期botにもその人はいちいち反応し、返信をした。だいたいはラノベみたいなくどくどした長文だった。つまんなかった。けど必ず反応してくれたから、暇つぶしにはうってつけだった。なによりも、構われてるっていう優越感が、承認欲求の塊にとってはたまらなかった。
 
あの人のすごい?ていうか、今思えばそれがすごくキモくて嫌だったんだけど、あの人は私が一度会話で言ったことは全部覚えた。私の大学の授業の週間スケジュール、高校の頃の親友の名前、部活の顧問の先生の名前、母親の名前・誕生日、弟の名前・修学旅行先、大学の友達の名前・出身地・それぞれの所属サークル、Twitterでしか言ってない通ってる教習場の名前。一度言えばあの人は全部引き出しの中に入れて、次回の会話でうやうやしくその情報を取り出して使ってきた。ここで察すればよかったのだが、何をとち狂ったか、私はその人の関心を引く自分という自己像に酔いしれていた。プチ女王様気分である。Twitterをフォローしあってたから、友達との写メを更新すれば可愛い可愛いとLINEが来た。今思えばキモい。
 
でも喪女は異性からの可愛いに飢えていたので、すっかり気を良くして向こうのLINEに写メを送ったりもした。もうこうなってくると、被害者も加害者もいない泥沼状態である。私は生まれて初めての家族以外からの姫扱い?に上機嫌だった。
不潔だけど、ここまでアタシが好きなら別に付き合ってもイイカモ!向こうから言ってくれればネ☆!つくづく馬鹿で、愚かだ。
 
派手にこんなんずっとやってると、まぁ話は広まるわけで。というか、向こうは結構周りに話をしていたらしい。そのうち、パートの主婦さんから付き合ってる認定みたいなのされた。実際告られてはなかった。し、この後も告られることはなかったのだが、私は、も〜やめてください☆と言いつつ、当時若干満更でもなかった。おそらく私は、少女漫画やアニメの世界だけだと思ってたそのセリフを言えたことに、少なからず興奮していた。言ってる自分に酔いしれてたのだ。冒頭で述べたとおりあの人を不潔なダサい人と断じていたくせに、それを忘れて、いい気なもんである。
 
でもやっぱり、どんなに承認欲求を満たしてくれても、どんなに姫扱いしてくれても、どんなに暇つぶししてくれても、どんなに可愛い可愛いと言われても、結局それは「そう言ってくれる人」であるから魅力的でイイカモ☆!と思えるのであって、断じて「あの人」自体に魅力を感じていたわけではなかったのだと思う。ここが私の最大のギルティポイントであり、キモさの根源だ。
最初は確かに、純粋な楽しさと純粋な友情があった。でも私の勘違いと姫願望という奇行に影響され、おそらく馬鹿な女子大生あわよくば手篭めにしたいモードに入ってしまったあの人は、いつの間にか全くおしゃべりがつまらない、メンヘラな私の機嫌をとるだけのイエスマンと成り果てていた。
 
気がつくとあの人は、私が友達の愚痴を言えば、友達を悪く言うことなく、でも私の苛立ちに共感してくれるようになっていた。例のボランティアの彼がLINE返してくれないと言えば、こうしたらいいんじゃないか君は魅力的だから大丈夫とアドバイスをくれた。バイトで年上のフリーターの後輩にイビラれたと言えば、憤って共に怒ってくれた。
でも私は、あの人から今日のお昼はこれ食べてると食べかけのカップ焼きそばの画像が送られてきても、就業後の夜食のポテチの画像が送られてきても、なんかよくわからん私の浴衣姿可愛いというポエムが送られてきても、全部返しは一緒だった。「ははは」3文字。以上。ゆがんだ気持ち悪い関係性の誕生である。
 
自分とあの人のキモさ、何よりこの関係性へのキモさに気がついたのは、例の慶應ボーイと音信不通になって、しばらく経ってからである。
1日授業のないOFFである水曜日に時間ある?とランチに誘われて、ご飯を割り勘で済ませた後、目黒川を2人で散歩しているときだった。桜が散り切った並木、青々した美しい新緑の木漏れ日の下で、隣を歩くふと彼の横顔を見たときに、私は、「あ、この人といても楽しくないし、なんか気持ち悪いなあ」と気が付いた。
 
思えば、ずっとフタをしていた感情だった。あの人が「お疲れ様でし」と言うたびに、顎を引いた上目遣いで「ねっ!」とこちらにお伺いを立ててくるたびに、パステルオレンジとエメラルドグリーンの布が継ぎ接ぎで組み合わされた不思議なシャツにボロボロでぶかぶかなカーゴパンツはいて、改札の雑踏からこちらに近づいてくるのを見た時に。それはいつだって浮かんできた。それを、気がつかないふりをしていただけだった。
「この人」から目をそらして、「彼氏みたいな人」「自分の思い通りになる人」「自分を祭り上げてくれる人」としかこの人を見ていなかったから、気がつけなかった感情だった。振り返れば、気の合う人から彼氏候補☆になった時に、もうとっくにこの人とは楽しい時間は過ごせてはいなかったのだ。歪んだ死に体。ゾンビみたいな関係になっていたのだ。それを自分の承認欲求と姫願望を満たすために飼い殺して、繋ぎとめておいただけだったのだ。自分のキモさと愚かさを私は彼のクレーターみたいな頬に見つけた気がした。
 
それからは、自業自得とはいえ苦痛だった。バイトであの人が休憩中わざわざ隣に来て自身の武勇伝を話しかけてくるたび、「◯◯(私)ちゃんのTwitter盛り上がってるね、俺は入れないけど、ちゃんと見てるよ」と個人LINEしてくるたび、これまでと同じように、何かあると顎を引いて上目遣いで伺うようにこちらを見てくるたび、バイト中に他の人と雑談が盛り上がるとその日のうちに「嫉妬しちゃうな」とLINEしてくるたび、本当に気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて、気持ち悪くて仕方がなかった。
 
精神的に辛くてどうしたもんかとおもっていた折、朗報が届いた。先月いっぱいで退職をするとのことだった。息子を見かねた親からの強い意向もあって、秋入社で親のコネで転職するらしい。
私は心底ホッとして、もうこれで終われると思って、パートさん達から任命された送別プレゼント係の仕事を全うし、門出を祝うことにした。あの人の最後の勤務日、全力の作り笑顔で花束とプレゼントを渡して帰宅すると、あっちは勤務中にもかかわらず向こうからLINEがきていた。「最近、◯◯ちゃんすごく冷たいなと思ってます。もうこれで俺たちは会えないですが、これからもお友達でいてくれますか?あと、よかったら俺の転職祝いと◯◯ちゃんの免許取得祝いも兼ねて、旅行でも行きましょう。行ったことないんだけど、俺海外とか行ってみたいんだよね」
 
私はスマホを投げ出した。
色々な考えが頭を巡って駆け抜けた。
 
(友達、というものは「いてくれるか?」なんてお伺いをたてるようなものではない。それをした瞬間に「媚びる側」と「られる側」に別れ、上下関係がうまれるだろう。果たしてそれは友情なのか?私はそうは思わない。)
(そうまでして、媚びてまで、私を繋ぎ止めてどうしようというのか。今更、あなたからどんなおしゃれフレンチを奢られようとも、華奢で可愛いアクセサリーでも送られようとも、私はあなたの隣にいる時はゾンビみたいな顔しかできない。そこまでして共にいて、互いになんの得がある?)
(だいたい、この人はどんだけ面倒くさいんだ、告白もしてないのに。付き合ってもないのに。告白する度胸も自然消滅を受け入れる器もないのかよ。てか旅行って。行きたいなら1人で行ってよ、男なんだし。女々しすぎだろ重すぎる気持ち悪い)
 
考えれば考えるほど、本当に気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くなったので、TwitterとLINEを即刻ブロックした。
 
 
 
 
今日ふと思い出して、ああ私もあの人も気持ち悪かったなあと自己嫌悪して、家にあった赤ワイン一気して、今これ書いた。
 
もう男友達☆はこりごりです。喪女には敷居が高すぎました。互いに呪いしか生み出せなかった。非生産的。ああ、本当に気持ち悪い。
 
 

呪いと絶望は、祈りと希望でもある

端的に言うと、失恋をした。

失恋をした、というかこれ以上あるかないのかわからない、あのこの脈を盲信し、進展を祈る気力がなくなってしまったというのが正しい。魔法がとけてしまったとでもいうのだろうか。




あのこというのはもちろん前回の記事http://ttt414141.hatenablog.com/entry/2015/04/16/231221のあのこである。


一回目のデート以降放流され、Facebookからの通知でご存知であろう私の誕生日もスルー。それでも恋に落ちた私は猪突猛進、痛々しく健気に、ここ1ヶ月ほど週一のペースでLINEを送っていた。喰いつきは割といいのに、進展はなかった。しかしつい先日、玉砕覚悟で食事に誘ってOKを貰って大喜び…からの「共通の友達も誘おう」である。


ずこーーーーーーー

という効果音が頭の上に浮かんだのも無理はない。


もっとショックを受けるものかとも思ったけど、案外冷静な自分でいられたことに驚いた。まーやっぱなという気持ちと、なんかもうどうでもいいんですけどという気持ちを噛み殺しつつ、私は女子会を企画する幹事のようなLINEを「彼」とした。


激萎えで過ごしていた折、はてなブログを回遊していて、とある方の記事に行き着いた。


http://papuriko.hatenablog.com/entry/2014/12/16/110508






引き込まれるように読みはじめ、沼に沈むように読みふけり、読み終わる頃には体力を一気に奪われたかのような倦怠感に包まれていた。そして思った。



お、大人って、つれーーーーーーーー


放流、喰いつき、回遊ときて釣れ、いや辛いである。


著者の方とここに登場する元魔法少女さんは、私のようなケツの青い「ガキ」ではなく、酸いも甘いも経験された「女性」なのだと思う。だいたい私は処女だし、いない歴=年齢だし。異性から選ばれる、あるいは性的な接触をしていない時点で私はまだ女子でも女性でもない、私はただの子どもなんだ……なんて言い出すときりがないので本題戻します。


ようするに、魅力的な熟練の釣り姐様たちでもこんなめにあっているのだ。恋愛経験のろくにない私のようなクソガキがうまくいかなくて、慶応ボーイに放流されるなんて、本当にたいしたことないし、ありふれてるし、てか本当にたいしたことないんだと思った。私的にはあのことの時間は一春の甘酸っぱい想い出だったけど、この甘酸っぱい想い出は瓶に詰められて大量生産されてるアオハタのイチゴジャムと本質は変わらない。アオハタは美味しいけどもね。


「あのこ」に恋していたときの「私いま、この恋物語の主役なの」とドヤ顔して生きていた様を思い出して急に可笑しくなった。爆笑した。結局私は魚っていうより、蛙だったみたいだ。自意識の中のかわずだ。

棒切れにタコ糸つけたおもちゃの釣竿で、田んぼの隅っこで、黒光りするランドセル背負った慶応ボーイに釣り上げられたウシガエルだったのだ。


性的な魅力があり、牧場の羊にある意味で選ばれた元魔法少女さんとは異なり、私はなにもなかったかのように生簀から川へと放流をされた。

この選ばれなかった事実を無理くりポジティブにとらえるならば、中途半端にヤることやっちゃうところまで進めなかったのはある意味で私にとって幸福なことであったといえる。


向こうが私の地雷を感じ取ったというか、特に食指がそそらなかったというだけなんだろうけど、気まぐれ起こされてヤられでもしたら、まじで私、魔女化待ったなしだった。性的な魅力がないというのも、神様が与えてくれた一種の自衛の才能なのかもしれない。


なにはともあれ、これでまた笑い話ができた。人生初のデートは楽しかったし、いい想いもできた。それで私は、蛙は、十分である。

希望が呪いをうむとしても、希望のない世の中を生きれるともおもわないし、生きようとも思わない。強がりだけど、今はそう信じている。


最後に釣り師の彼に一言だけ言いたい。

ずっといいたかったけど、履いてた靴、カブトムシのメスみたいだったね。

恋に落ちた話


恋に落ちるという言葉があるのは知識としては知っていたけれど、まさか自分がその沼にはまるとは思わなかった。


その子とは先日行った国際ボランティアで知りあった。笑顔が素敵で、子どもに好かれて、純粋で。


理屈抜きでまさしく「落ちた」。本当にあのことずっと一緒にいたいと思う。と同時に、ただただあのこには幸せでいてほしいという思いもある。その二つがせめぎ合っている。


何気無くLINEしたら食事に誘われて、歯矯正してて汚ないから映画いこうっていって映画みて。人生で初めてのデートだった。本当に。楽しかった。彼氏いる?って聞かれてすごく心臓がどきどきした。やっぱり付き合うなら年上がいいのかなって、もうそんなのなんでもいいわ。


どうしても会いたくなってもう一回こっちから誘ってみたけど忙しいからって謝られた。あーもうそうだよね、忙しいよね。ごめんごめんLINEして。


初恋は実らないという格言通り、多分なんかもうダメだとは思うけど、一つだけはっきりとしていることがある。かの大槻ケンヂさんもこう言ってる。


そして、「でもやれたからいいか」とつぶやける度量があれば、ストーカーなどになることもない。 
「で、でも、まだやってねーんだよーっ!!」と、お嘆きの方々もあろう。 
そういう場合は、二人の関係性の頂点と思える段階を、「やれたから」の部分に置き換えてみるとよい。 
「でも、抱き合えたからいいか」そこまでも到っていないとしたら、また入れ替えてみたらいい。 
「でも、キスしたからいいか」「でも、手をつなげたからいいか」「でも、ドライブに行けたからいいか」 
「でも、映画を観たからいいか」「でも、一緒にお酒を飲めたからいいか」「でも、告白できたからいいか」 
「でも、声をかけられたからいいか」「でも、目と目が合ったからいいか」「でも、出会えたのだからいいか」 
「でも、そこにいてくれたのだからいいか」「でも、生まれてきてくれたのだからいいか」 



あのこにはこれから先、ただ幸せに自分らしく生きていってほしい。ただそれだけ、ただそれだけだ。


ぜんぶ、妖怪のせいだ

 

今、妖怪ウォッチがちびっ子達の心を鷲掴みにしている。

 

国をあげて失敗作だと名指しされ、教育方針の改正でもはや無かったことにされそうなゆとり世代の一員である私は、そんな妖怪が覇権を握る現実を見るたびに、なんだかとっても寂しくて、切ない気持ちになる。

 

私が小学生の頃、一斉を風靡していたゲーム・アニメといえば、ポケットモンスター略してポケモンだった。

今となっては分厚くね?!とNOWなちびっ子達に馬鹿にされそうな懐かしのゲームボーイアドバンス。起動するとキーンピュイーンって、めっちゃかっこいい音がしたあいつ。

誰かの家の通信ケーブルを使って友達同士通信して、男の子女の子問わず夢中にポケモンマスターを目指していた。そういえば、たまごっちみたいなピカチュウ育成携帯ゲーム機もあったっけ。万歩計みたいなやつ。名前忘れた。

例に漏れず、当時小学生だった私のお気に入りゲームも、とっとこハム太郎3ラブラブ大冒険でちゅとポケットモンスターのエメラルドだった

 

今となってはポケモンと同じく、ハム太郎さんも現役を退いた感がある。もう完全に自分は子供というカテゴリから切り離されつつあるってことなのだろうか。ブログを書きつつそんな事実を否応に実感し、ちょっと切なくなる。冒頭で言った寂しさ、切なさは多分ここから来るのだ。正直、この前出た成人式より胸に来るものは大きい。

 

私はまだまだ子供でいたいんだーとばかり、カラオケにいくとめざせポケモンマスターを歌ったりする。ストーリ性の高い歌詞を気持ちよく歌い切った後、ふと思う。

ゲラゲラポーとヨーデルヨーデルは紅白に出れて、なんでこの曲はダメだったんだろう。ポケモン世代の私はやっぱりどうして肩入れしてしまうのだ。

 

百歩譲ってまだゲラゲラポーはいい。なんかこう、ネットで繋がってばかりってどうなの?!みたいな気持ちが伝わらなくもないから。

でもヨーデルはダメ。朝眠いのも、僕ちゃんイケメンなのに振られたのも、ピーマン食べれたのも、うんちが臭いのも、それはそういうものだからです。仕方ないです。むしろピーマン食べれたのはお前の努力の成果だわ、自信持て。

でもあの歌ってる子達はみんな可愛くて正直好きです。

 

小さな頃は、20歳になれば、自分は大人になれるもんだと思ってた。でも実際はそんなわけなくて、自分から大人にならなければ、一生歳くった子供のまんまってことに最近気づいたのでした。

 

 

 

 

 

理◯の人、いい人でした。



大学の友人から、こんな笑い話を聞いた。


県内でも下から数えた方が早い学校へと転任した恩師を、友人たち教え子が囲む機会があった。そこで恩師から赴任中の学校でのこんな出来事を聞いたという。


ある日、1人の真面目そうな生徒が職員室にいた恩師のもとへ質問をしに来た。なんだろうと思って聞いたら、『先生、この前水族館行ったんだけど、水槽に干物が全然泳いでなかったよ、なんで?』


小学校なら微笑ましく美しい学び舎の一コマになり得るが、残念なことにこれは県立高校の職員室での一コマである。

恩師のその話に囲んでいた生徒達からどっと笑いが起きて、それをうけた恩師はお前達を受け持ったいた頃にもどりたいよ、となんとも言えない顔でため息をついたという。友人からの又聞きであるけれど、私も思わず笑ってしまった。




つい先日、通っている大学の必修授業の外部講師として、STAP細胞のあの人が所属していた某研究所の方が来た。

初回授業冒頭の軽い自己紹介で、先生は自身の学歴と今の立場をまるでマックで商品を注文するかのように思い入れもなく淡々と説明した。パソコン室内の生徒はみんな、スマホをいじる指を止め、LINEを閉じ、あっけに取られて、ただただ先生を見つめた。私ももれなく、先生を見つめた。

四流文系私大のしかもたかが一学部の演習授業になぜそのような方が。間違いなくそれがクラス29人の総意だった。


なんとか筆を選ばすという古いことわざ通り、先生はそんな私達を気にするでもなくさっさと自己紹介を終えると授業内容の説明プリントを配布し始めた。

事前学習用に配られたプリント記載されてた意味不明な用語達が、中学生でもわかるように書き直され、解説され、紙面に踊っている。しかもご丁寧にPOPでライトな絵図つき。実にゲーム・漫画好きのゆとりっ子に歩み寄ったプリントだった。

なんだ、これならわかりそうだぞと事前学習の際に感じていた不安が和らぎ、私は教室の隅でほっと一息をついた。このころにはみんなも緊張がほどけたのか、Twitterの画面を開く人もちらほらと現れる。そして誰からともなくこう呟き出したのだった。


「◯◯先生やばい、◯研だって。結構かっこいい(*^_^*)」


女子というのは自分もそうだけれど権力や肩書きに弱くて、ミーハーなものだ。7:3で女子生徒が圧倒的に多く、男性講師はお年を召された方が多いこの学部において、うら若い女子大生が、理◯で、割と若くて、高学歴な先生にときめきを感じてしまうのも有る意味自然の摂理なのかもしれない。悲しいかな異性方面のアンテナがへし折られている私は、この人すごいバンドやってそう。ギターではなくベースやってそう。とWordを立ち上げつつ1人で思っていたのだった。


授業の腕ではなく自身のルックスが女子生徒たちに値踏みされているとも知らずに、淡々と解説を終えた先生は今度は次回の授業で行う実験に関して説明をしだした。


「というわけで、以上の解説を踏まえて次回、検証のための簡単な実験を行います。実験内容は、再来週、課題レポートとしてまとめてもらうから。」


そこで先生は一息ついて、パソコン室の58の瞳を見渡した。


「実験データの分析には少し数学の知識が必要です。…一応聞いときますね。みなさん、対数って覚えてますか?ちゃんと説明できる人、います?」


………はて。

私は思わず固まってしまった。




対数って、ほら、logなんちゃらだよ。高校の時、数Ⅱでやった…

それくらいはいくらなんでも覚えていた。だが、逆にそれだけしか覚えてはいなかった。

いくら頑張って思い出そうとしても、授業中の私語に頭を赤くして怒ってた自称パグ似の数学のY先生の顔しか思い浮かばない。

当たり前だ。高校2年の三角関数のテストで赤点の半分以下、100点満点中10点をたたき出して以降、私は数学を極力避ける人生を送ってきた。この大学には英語と国語と世界史で、何とかすべりこんだ有様。


そういえばY先生はブタ草アレルギーで、よく秋になるとマスクをしていたっけ。俯きながら思い出に浸り現実逃避をしていると、生徒全員から目をそらされて、色々と察した先生が苦笑いをした。


「えー、っと。はい。じゃあまずですね。数学、苦手な人?手を上げてみて」


優しい声色だった。まるで幼稚園児を相手にする、でんじろう先生のような優しさ。慈愛を感じた。そうだよな、お前らだってゆとり教育の犠牲者だもんな。そうだよこっちだって好きで馬鹿やってるわけじゃないんだ!

そんな声のない問答があったかなかったかはさておき。

それを受けほとんどの生徒が一斉に目線を上げ、堂々と手を頭上にあげた。私も手をあげた。


「自信満々ですね」


先生は、なんともいえない顔になった。


きっと、この教室の誰かに「この前水族館行ったんですけど、干物がどこにも泳いでなかったんです」と言われても先生はこんな顔をするんだろう。会ったことも見たこともない友人の恩師も、きっとこんな顔でため息をついたんだろうと私はなんとなく思った。

若干の沈黙の後、先生は、じゃあ累乗って分かりますか?指数は?と義務教育までさかのぼって私達に解説を始めた。


懇切丁寧な説明のお陰で、翌週無事実験は終わった。課題レポート作成のため、実験終了後は各自集計した実験データを四苦八苦で分析した。先生は、男女問わず、質問責めされていた。みんな必死だった。何がわかっていないのかすらよくわからない私達に、先生は「でももうこれ以上は説明のしようがないんだけどなあ、」を枕詞として挟みながら、根気づよく解説をし続けた。

そうやってなんとかレポートとしてまとめると、先生の周りからさあっと人垣は減った。それらしい考察を考えるため、今度は自分の席で皆ひいひい言いながらWordとにらめっこする。翌々週の期限内までに私はなんとかまとめたレポートを提出することができた。


しばらくして返ってきた添削済みのレポートは、冒頭の章なんか一行に一言訂正がなされるくらいの散々な出来だった。やっぱりなあと読み上げながら肩を落としていた私は、最後のページに目を奪われた。

頭を捻って、さも理解している風に誤魔化しつつ書いた考察の3行目に、黒い下線が引っ張ってある。そこから矢印がのびていて辿ってみると、先生からのコメントが鉛筆で書いてあった。

「ここらへんは、ちゃんと専門用語を利用して考察ができていていいです。」



思わず笑みがこぼれた。

やっぱり私もミーハーだったのだ。














斎藤くん(仮名)、お元気ですか


ブログタイトルの由来になった斎藤くん(仮名)のお話。


斎藤くんと私は小学校2年生のときに始めて同じクラスになった。

出席番号が近く、家もそこそこ近かった私達はなんだかんだで仲良くなって、ある日同じく番号の近い佐々木君(仮名)を交えて放課後公園で遊ぶことになった。

「自転車で公園集合ね!」

下校の別れ際笑顔で言われて、当時8歳だった私はとても焦った。

なぜなら、私は自転車に乗れなかったからだ。

いい出せずに別れ、どうしたもんかと悩んで、思わず母さんに相談したけど、とりあえず集合場所に歩いて行ってみたらと言われて、そうした。

駆け足でやって来た私を2人は察したのか、自転車乗れないの?次は自転車のれるようになってねーと別れ際に言うだけで、普通に遊んでくれたことをなんとなく覚えている。優しい子達だった。ちなみに私が自転車に乗れるようになったのは、恥ずかしながら小学5年生になってからである。


斎藤くんは、小柄で色白で、兄弟がいっぱいいる家の長男だった。

ほんわかした笑顔と舌たらずな喋り方が特徴的だった。授業でさされるとはにかんで「わかんない」とよく答えていたけれど、運動神経は抜群に良かった。特に縄跳びが得意だったから、クラスの縄跳び四天王みたいな称号を持っていて、体育の時間はいつも誇らしげだった。

二重跳び、はやぶさ、あやとび。いつもはマイペースな斎藤君も、縄跳びの上達は誰よりも早かった。


残念ながら3年生のクラス替え以降、斎藤くんとの交友は学年が上がるごとになくなって、ついに話すことも無くなり、そして私達は地元の中学校に進学した。

1,2年生は別々のクラスだったけど、初めて3年生で同じクラスになって、とても驚いた。


斎藤くんは、結構重めのいじられキャラになっていた。

いじられだったか、もはやいじめだったのか、何もしなかった外野がとやかく言う資格はないのかもしれない。けれど、その扱いが本人の意に反してないことくらいはわかった。笑顔がとても卑屈なものに変わっていたからだ。


クラスは居心地が悪かった。

斎藤くんを執拗にいじっていたのは、一般的に優等生とされる部類の奴らだった。イケメンともてはやされて、勉強もそれなりにできて、なおかつ推薦ですでに進学校への入学が決まっている奴らが、暇つぶしとばかりに片手間に、でもねちっこく、斎藤くんに絡んでいた。


「お前は馬鹿だし、家貧乏だから受験勉強しなくていいからいいよな。どうせ高校いかねーんだろ?」

「昨日の晩なにやってた?俺は塾行ってたけど、お前は?そっかー、馬鹿だからゲームやってたんだよな」

「本当お前ゲームしか取り得ないな」


担任がいる前でもお構いなかった。注意を受けてものらりくらりと回転の早い頭はいいわけを叩き出して、卑しく笑って誤魔化してた。

辛い記憶や自分に都合の悪い記憶はは脳が抹消するというけど、これ以降の彼に関する記憶は、恥ずかしながら私にない。


卒業をしてから5年経つ。今斎藤くんがどうしているのだろうか。

高校には行かなかったと聞いた。

成人式後の中学の同窓会、私は行かなかったけど、リア充な人たちがSNSに流して来た写真の中にもそれらしき人はいなかった。


優しくて、縄跳び上手の斎藤くん。今何をしてるのかな。どこにいるのかな。ちゃんと社会と繋がれていて、すこしでも幸せを感じていれればと勝手ながら祈ってます。不登校になるとか言われた私もなんとか大学まで通えてるよ、大丈夫だよ、とネットの海に向けて呼びかけてみる。


思い返せば、斎藤くんだけじゃない。他にもたくさん、呼びかけたい人はいる。正しいけどはっきりした物言いで学年から嫌煙されて、いつも一人ぼっちだったフィリピーナのあの子、小柄でおどおどしてて、きもいってずっといじめられてたあの子、学年1のギャルだったのに、些細な喧嘩で仲良しグループ縁切られて、現在消息不明な、小学校の頃仲良かったあの子。


みんなみんな、現実という荒波に吸い込まれて、こちらから見えなくなってしまった。

なんだかなあ、悲しいな、悔しいな、情けないなあと思いながら、私は波間に漂う粗末な板きれになんとか今日もしがみついている。



















6年間続けてきたものを7年目に辞めた話



プロを目指してたとか、そういった大層な話ではない。


私が中学一年生の時に吹奏楽部に入ったきっかけは、友達のkちゃんのお姉ちゃんの影響だった。

祖母同士交友があって、幼稚園からの付き合いだったkちゃんに連れられて、小学生6年生のとき私はお姉ちゃんの演奏会を聴きに行った。そこで一目惚れをしたのだ。

小柄なお姉ちゃんが担いで演奏していたトロンボーンにである。


昔からこうと決めたら猛進する傾向がある私は、地元の中学に入学するとすぐさま吹奏楽部に入った。幸か不幸か、トロンボーンを希望する子は同じ学年にはいなくて、私はめでたくぴかぴかでかっこいいトロンボーンを担当できることになった。kちゃんのお姉ちゃんは「お姉さん」から私の「先輩」に変わった。


地元の中学は吹奏楽部がそこそこ上手いところで、夏のコンクールで関東大会までいけることもあったし、県大会までいけることもあったし、でも地区予選で落ちることもある、そんな学校だった。

だから練習は、やっぱりそれなりに厳しいところだった。楽譜もまともに読めなくて、おまけに今以上に引っ込み思案でコミュ障だった私は、譜読み練習だとか、けっこう厳しめな他楽器の先輩たちとかかわるのが本当に大変で、辛かったことを今でもはっきり覚えてる。


正直に、そして端的にいえば、中学のとき私はぜんぜんトロンボーンが上手くなかった。し、上手くならなかった。

才能がなかったというより、能力がなかった。いくら練習してもダメだった。「そこそこ」どころか「それなり」どころか、普通以下だった。

歯医者行くたびに珍しがられるくらいの歯並びの悪さとか、体が弱かったとか、楽器を持てる筋力がついてなかったとか今なら色々理由は分かるけど、そんなのは後から分かったことで、当時の私としては単純に単純に辛かった。悔しかった。だって練習しても下手なままだから。


それでも3年間続けた。辛かったし、先生には嫌われてたし、部員の前で怒鳴られたり、合奏中に教室から追い出され泣きながら個人練習をしたりもしたけど、辞めなかった。kちゃんのお姉ちゃんをはじめとするトロンボーンの先輩が優しくて好きだった、下手の横好きでも演奏をするのが楽しかった、そして部活の友達が大好きだった。練習終わりに校門の前で駄弁ったり、土日の練習の時お昼を一緒に食べたり、おかず交換こしたり。みんなで待ち合わせて浴衣きて地元のお祭り行ったり。私の居場所は部活にしかなかった。


うちの中学は周辺でも名を轟かせるバカ校だった。成績の内心も「あそこの中学の5は他の学校の3か、よくて4だ」とか散々な言われようだった。九九を言えない人が学年に3人くらいいた気がする。

さっき言ったとおり、私は引っ込み思案のコミュ障で読書と漫画と音楽が好きな、不細工な文学少女もどきだった。もちろんクラスや学年に馴染めるわけはなくて、いつも長いスカートを引きずりながら同じクラスの部活の子のあとをついて歩いてた。部活関係の子とそれ以外では1人しか友達はいなかった。

当時の私にとって部活を辞めるということは、居場所を失って学校を辞めるということに直結していた。幼いながらに中学はちゃんと行かねばと思っていた私は学校も部活も頑張って行ったのだ。


そんな3年間をトロンボーンとともに泣きながら過ごし、やっとのことで中学を卒業した。

嫌われてた指導の先生から、「あなたのような人は高校で不登校になります」とか言われつつも、私はなんとか地元の中堅公立高校に進学することができた。

高校は本当に、本当に、フツーの高校だった。みんな九九を当たり前に言えたし、ある程度は勉強ができるし、なにより常識的だった。県立で古い学校で、けっこう辺鄙なとこにあって、だからか生徒はみんな素朴で穏やかで、結構素敵なところだったと思う。

入学当初、私は分厚くて癖のあるだっさい前髪の下の目をキラキラさせながら、どんな高校生活を送ろうかなんて考えていた。

なんちゃんて進学校だったうちの高校は、部活の参加率が8割強の「文武両道」が売りだった。もちろん私も、どこかの部活に入ろうと考えた。


3年間の洗脳っていうのは怖いもので、まずあ見学に行ったのはあんなに辛かった吹奏楽部だった。

私にとって、部活といえばイコール吹奏楽部以外の何物でも無くなっていたのだ。


結局高校も吹奏楽部に入った。今度は自ら選択して、入部をした。運動部は運動音痴だから無理、軽音はチャラくてリア充多い馴染めない、漫研はなんか嫌。冴えない割りに注文の多い私は、居場所はここにしかない、と15歳ながら直感したのだった。

今度は中学と違って規模が大きな部活で、新入部員は50人弱いた。その中でトロンボーン希望は私含め7人いた。入部してすぐ、トロンボーンの先輩に、7人で呼び出されてどうにか2人降りてほしいと頼み込まれた。私は、これで中学の嫌な記憶を捨てれると躊躇うことなくすぐに希望を降りて、そして誰も希望していなかったユーフォニアムになった。

中学のときの先輩だった、kちゃんのお姉ちゃんも同じ高校の同じ部活に所属してた。お姉ちゃんもトロンボーン希望者が多すぎて、別の楽器に移ってた。オーボエだった。らしいなって思った。


中学の練習に対する姿勢が嘘みたいに、省エネモードでユーフォに取り組んだ。やっぱり、ここでも私は普通以下だったけども、頑張ってなかったからそんなに悔しくなかったし、辛くなかった。部内には先輩に後輩同学年問わず自分より下手な人もそれなりに居て、それがより私から頑張りを削いで行った。高校3年間通じて、私は練習では一回も泣くことはなかった。


中学と違って高校の吹奏楽は経験者が多いから、一般的にコンクールのレベルは高い。上手な私立とかは、音大生が使うような新品の楽器を持って、プロのバンドみたいな音でCDのような演奏をする。

そんなコンクールにおいて我が校は、数年に一度結果を残したりでも大抵は残せず敗退する咬ませ犬みたいなポジションだった。


咬ませ犬の中でだらだらと過ごして、あっという間にここでの3年間も終わった。楽しかった。怒られることなく部活ができるって本当にこんなにのびのびできるんだって、大発見だった。

あいかわらず部活にしかまともに友達ができなかったけど、高校の同学年の四人に1人が吹部だったから、友達はそれなりにできた。卒業してからもまめに年賀状をくれる可愛い後輩もできた。

今でも彼らとは繋がれてる。本当にありがたいなと思う。


高校卒業後は地元から首都圏の文系私大に進学した。偏差値は本当に普通。高校と同じくらい。初めての私立だった。よくも悪くも自由な大学生活。私は迷うことなく部活をやろう、と考えた。


しかし、この頃から私は歯の矯正を始めていた。矯正中に管楽器を吹こうものなら瞬時に口の中は血だらけになる。楽器演奏はご法度だった。吹奏楽部は今回はやめようと思った。

どうしたもんかと落研だとか、ボラサーを幾つか見学して、私はオーケストラ部に入ることに決めた。なんか楽しそうと思ったから。洗脳って本当に恐ろしいね。

また大所帯で音楽をやる集団に入るーー高校の部活を引きずっていたのは自分が一番理解していた。



気がつけば素人なりに楽器に携わって7年目に入っていた。


トロンボーン、ユーフォときて、今度の相棒はチェロだった。

口を使わなくていい弦楽器で、なおかつ音域が前述の二つと重なる。

今度の楽器とも四年間の付き合いになるだと私は疑いもしなかった。


吹奏楽とオーケストラの大きな違いに気がついたのは、入部して数ヶ月が経った頃だった。

まず、金持ちの子が多い。新入部員のほとんどは経験者たちだった。3歳からバイオリンをやるような子供たちはやはり、有る程度の生活水準で育ってるってこと。

オーケストラは本当にお金がかかる。

練習場所への交通費、場所代、先生へのレッスン費、個人レッスン費、そして月々の部費、演奏会をやる度の会費、打ち上げ、ドレス、楽譜、その他必要雑貨、7泊8日ある合宿。

あとあと計算したらトータルで年間20万を超えていた。当時はそれをどうにかバイトをして捻出していた。

春と秋にある演奏会に向け、年二回の合宿があり、そのあとに練習強化期間に入って、本番まで土曜入れた週4で練習があった。

昼間学校が終わってから、別のキャンパスにある楽器倉庫に重い楽器を取りに行って、練習場所に行って練習して、夜11時くらいに電車に揺られて帰る日々だった。あとの2日は学校帰りにバイトをやって、残りの日曜はひたすら寝るか、学校の課題に追われてた。

インドア派にとってはただただ、時間だけが過ぎて行く日々だった。


周りの子達は、本当お金ないよーといいつつも、ブランド物の化粧を買いあさったり、練習サボって海外旅行行ったりしてた。

会話もFacebookの話題も、Twitterの呟きも、高校の頃とは全然違う。コンビニでアイスやけで買っちゃったとか、自転車で隣の市まで行ったよとか、そんなんじゃなかった。別次元だった。

みんな、なんちゃってじゃない本物の進学校出身で、親がだいたい一流企業か公務員で、この学校は滑り止めなんだーまぁ楽しいからいいや、就職は親の会社のコネあるしって、常にそんな感じ。

パリ、ロンドンに家族旅行で2週間滞在したよ。横浜にあるうちの家が持ってるビルがさあ。高級鉄板料理店で家族でディナー。そこでこんな綺麗なネックレスもらったのみてみて。コンビニのプリンとか不味くて食べれない。パステルのプリンは好きかな。


中学の時に父親がアル中拗らせて肝硬変なってからろくな外食も旅行もしてなくて、一応この大学を第一志望にしてたなんちゃって進学校出身でコネのない私は、そっとSNSをやめた。

お金ないよねーって言ってる異世界の彼らが、もうどうでもよくなってしまった。


人類皆兄弟とかいうけれども、やっぱり住む世界というものは存在して、住人によって価値観はまるで異なるのだろう。今でも断言できる。ここは私の居場所ではなかった。

私は1年でオーケストラをやめた。


吹奏楽部に入ってたら、もし国公立だったら(まぁそんな頭はないけどね)

といろいろ思わなくもないけれど、7年目に辞めた本質はそこではないような気がする。


あくまで、吹奏楽部とか音楽系部活っていうのは媒介に過ぎなかった。同じ価値観、同じ世界の住民と繋がるための媒介だ。

本当に音楽がもうめちゃくちゃ好きで、楽器がめちゃくちゃ好きだったら、何浪してでも音大か専門に行こうとするだろうし、口の中が血だらけになろうとも楽器を演奏し続けるだろうし、どんなに周囲が異世界だろうともひたむきにチェロを練習し続けたはずだ。

それをしなかったっていうのは、所詮音楽への思いがその程度だったってこと。音楽が目的ではなく、ただの出会いツールみたいなものでしかなかったってことです。出会い厨か。バッハに謝れ。


オケを辞め、現在私は2回生。やることもなく新しい居場所を求め、新しいツールを探索しつつフラフラとしています。