斎藤はどこへ行った

ベリベリエモーショナルOL2年目(元大衆大学へっぽこ心理学部生)

ザイル先生と私 エピソード0 〜私のガチャ歯〜

 

「保険が適用される骨切り手術が必要ですね。そうしないと歯並びを治すのは難しいと思います。」
 
学生街の片隅にある矯正医院にて、壮年の先生にこう宣告されたのが、今から2年半前のことでした。
 
えーーーーまじでガチャ歯直すのに手術いるの???私そんなに奇形ってこと??やっばーーーーってか保険きくんだーーーてかやっばーーーー
 
と頭の悪さ全開で混乱する私を尻目に、矯正の先生は淡々と私のガチャ歯を構成する要因の解説し、この要因を除去するには土台の顎の骨からなんとかしないとならん旨を淡々と説明してきました。以下、その旨を2点にまとめると
 

①上の歯と下の歯が噛み合わせることができていない。隙間が開く。(開咬)

→下顎が下に発達しすぎているため

 

絵に描くとこんな感じ

※全力で噛みしめてイーってした状態の私の歯並び

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歯を噛んでも間ができてしまうため、相当意識し力を入れていないと口が開いてしまう。なので馬面。

 

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その原因は下顎が下に発達してしまったため、上顎との間に隙間が出来てしまったから。

(つまりめっちゃ顎がなg……)

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あーこういう奴いるわーって感じですよね。クラスに1人はいた、なんか口元がゆるくていつも締まりがない顔の奴。あれってね、うん。気性とか口呼吸のしすぎとかの場合もあるかもしれないんですが、結構な割合で開咬が原因だと思います。私もその1人でした。

 

だから、こういう口元緩くてポカンとしてて、時にはよだれが垂れちゃう子と出会ってもボーイズエンドガールは決してはやし立てたり馬鹿にしないでネ☆全口ぽかーん民を代表してお願い申し上げます。

 

 

②上の前歯が二重に。下の前歯もガタガタしている。要はガチャ歯(叢生)

 

→上顎が狭すぎるため

 

上の前歯のイメージとしては、ウエストランドの井口パイセンの画像を引っ張ってきた方が早いかもしれません。

 

これです

 

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パイセンを初めて見たとき、え???この歯???私じゃん??????ってなる位親近感を覚えました。なんでこーなっちゃうのかなって思ってたのですが、先生曰く上顎が狭すぎなのが原因みたいです。スペース足りないけど歯は生えてきちゃうから、泣く泣く場所を節約するため……ってとこですかね。もースペース足りないなら生えてくんなよ……別に歯の本数とかそんな気にしねーよ……

 

あ、全国のボーイズエンドガールズはくれぐれも笑ったときに歯が二重になってる奴をからかったりしないでネ☆私との約束だ☆

 

 

 

 

 

 

ということで、私のガチャ歯は上顎と下顎が原因だとのこと。だからいくら、歯にあのワイヤーとボタンみたいなの付けて動かしても根本の土台:顎の骨がうんこなので解決にならない、だから手術で骨をどうにかしないといけないとのことでして。

 

歯科矯正の先生は手術をすることができないため、家の近くの某大学病院の先生を紹介してくれることになりました。

 

曰く、この医院で矯正をし程度歯の並びを整えた後、大学病院で骨切って治すみたいな方針が一番理想的とのこと。じゃーもうそれでイイっすわと、紹介された大学病院を初診しました。それが今からもう2年前のことです。

 

 

んで、その紹介された大学病院にて、私はザイル先生と出会ったのでありました。

 

 

 

 

 

前置きが長かったなぁ、つづく。

 

 

 

 

 

 

私以外も私です

今週のお題「20歳」


20歳になったいま、思うことがある。


10代の頃、私は父を軽蔑していた。

父はアル中で、そんでもって無職だった。自室で、昼夜問わずYAZAWAを爆音で垂れ流し、日中はいつもオンボロの自転車に乗ってブックオフに通いつめる父。読みもしない自己啓発書、使いもしない100均のクリアボックスを買いだめる父。祖母のことをクソババアと揶揄する父。俺は自由に生きるんだ、俺は自由に生きるんだと扶養をされる身分の癖に、うわ言のように繰り返していた父。私は父を軽蔑していた。


10代の頃、私は母を軽蔑していた。

父がアル中になるのを止められず、流れ流され生きてきた受動的な母。私が何を聞いても「わかんない、わかんない」と一蹴する無知な母。耳が悪くて、携帯ショップの店員の言葉を何度もなんども聞き返す母。なんてバカなのだろうと軽蔑していた。


10代の頃、私は祖母を軽蔑していた。

落ちぶれている父を産んだ祖母。父を黙認する祖母。要領が悪い祖母。くちゃくちゃと音を立てて物を咀嚼する祖母。信心深く、ご先祖の仏壇に毎日毎日食事をあげ、拝んでいる祖母。いもしない死んだ奴拝む前に、まず自分の息子どーにかしろよと呆れていた。


10代の頃、私は部活の顧問を軽蔑していた。下っ端公務員(事務員)の立場で、生徒には強く、他の教師や外部講師にはゴマばかりすっていた顧問。朝練をしている私たちの横で、私たちの自習練習の仕方を、他の顧問と聞こえるようにわざと大声で揶揄していた顧問。毎回外部練習で機嫌が悪くなると、1人で近くのファミレスに行ってしまい、戻ってこない顧問。困ったと生徒全員でジョナサンまで追いかけると、キレる顧問。しかし、追いかけないともっとキレる顧問。

大人って本当クソだなと憤っていた。


大人ってクソだなと思っていた。大人っていうのは、アル中で、流されやすくて、要領悪くて、大した能もないくせにゴマするゴミばかりだと思ってた。私は大人になりたくなかった。10代終わったら、小洒落た遺書書いて、それをFacebookに投稿して、首吊って死んでしまおうと考えてた。






10代の終わり、19の時に父が死んだ。先を越された。

まぁ、死ぬだろうなと思っていたから、その時は別にどうとも思わなかった。午前6時にホスピスで息引き取って、葬儀屋が遺体を取りに来てくれるのを待つ間、私は待合ロビーでmowのチョコアイスを買って食べた。

アイスはどーってことない味がした。なんかもう、色々なことがどうでもよかった。


2、3日後、家族葬が淡々と行われた。

親戚がちらほら来た。近所の人もぽつぽつ来た。坊さんが有り難いのかそうでないのかよくわからん経を唱えるのを、ぼうっと見て、焼香して、そんで寿司食べた。


寿司食べながら、参列してくれた人らは父の話をポツポツした。


色々な話が出た。どれも初耳だった。 


幼い頃、介護と三人の子の子育てに追われ、辛くて泣いていた祖母に駆け寄って「母さん、母さん、辛抱だよ、辛抱だよ」と言った父。

小学生の頃、地元の少年野球で投手として活躍し、アメリカの小学生との交流試合で投げ抜いた父。

学区1の高校に進学し、そこで全く勉強についていけなかった父。

高校の頃、買ったお気に入りのバイクをお金のない友達にあげてしまった父。 

体育大学へ進学したかったのだが、祖父からの意向で、建築か土木が学べる大学しか受験をさせてもらえず、2年浪人し不眠症になった父。

何かあると、嫌な顔1つせず車を出して、家族のお抱え運転手をしていた父。

大学入試で「親子の断絶」をテーマにレポートを書けと言われ、「特に断絶は感じたことがないが、強いて言うなら食の好みが違う。食というのは生きる上で大切なことであるから、これも立派な断絶であろう」と述べ、その後の面接で、君のが一番面白かったよと言われるも、無残に落とされた父。

大学の頃、徹夜麻雀にはまってよく親戚のおじさん方としていた父。

大学院への特待進学の話を貰うも、母子家庭の同級生にその話を譲った父。 


聞いたことがなかった。意味が分からなかった。訳がわからなかった。


みんながみんな、いい奴だったいい奴だったというものだから、よけいに混乱した。

私の中の父の姿は、思い出話の中にはとんと現れてこなかった。





無事に火葬も終わって、葬式も終わって。位牌抱えて家に帰り、ずっと、私は父のことについて考えていた。


なぜなんだろう、と思った。聞きたいことが沢山あった。なんで、なんで、なんで?こんな気持ちは初めてだった。


今、本人に聞こうと思うにも、もう相手は灰になっている。

だがまだ生きていた頃、本人に聞けた頃には聞こうとも思わなかった。聞かなかった。だから、父も話そうとも思わなかったんだろう。

なんだ、どっちにしろ知りようがない。分かりようがないじゃないか。


そこで初めて涙が出た。意味が分からなかった。ガン泣きした。訳がわからなかった。過呼吸になった。



そこで私は気がついた。

大人だって、人間なのだと。

大人だって、いつかは子供だったのだと。

そして、大人だって、懸命に生きているのだと。


完璧な父親、理想的な父親とは程遠い父であった。

しかし、それなりにそれなりに懸命に生きていたのだと思った。懸命に生き、お人好しで、我慢して、辛抱して、挫折して、それでも生きていたのだと思った。


「母さん、辛抱だよ」


そういった小さな子どもは、父は、きっと自分自身にもその言葉をかけ続けたんじゃないかだろうか。辛抱だよ辛抱だよ辛抱だよ。その反動が晩年のあの言葉だったのかもしれない。「俺は自由に生きるんだ」


そのことに気がついた時、私は父の姿に小さな少年の姿が重なって見えた気がした。


介護に家事に追われる母に構ってもらえず、寂しさを堪え「辛抱だよ」とつぶやく子ども。

自分の進路を否定され、強制された進路のため「辛抱だよ」と浪人に耐えた子ども。

特待生の話を、正義感から母子家庭の子に譲り、「辛抱だよ」と就職を選んだ子ども。




すると、憎くて、軽蔑していた記憶の中の大人たちの姿にも、小さな子供がオーバーラップして見えた。


早くに最愛の父を亡くし、母親と折り合いが悪く、戦争の時代を懸命に生きた祖母と言う子ども。

デブだのろまだと部活の先輩からいびられ、死ぬ気で楽器に打ち込んだ顧問という子ども。

父の仕事の都合で転校を繰り返し、人との関わり方に悩んだ母という子ども。


みんなどうしようもなく子どもだった。私は何も見えていなかった。みんなみんな、心の中に子どもを抱えていたのに。みんながみんな、完璧だなんて、あり得ないことなのに。きっとこの世に大人なんていないのだ。年をとった子どもが、懸命に大人のふりをしようと、自分の中の子どもを消そうともがいて、取り繕って、生きているだけなのだ。自分の子どもに蓋をして、見ないふりをして。自分の心の欲求を、聞かなかったことにして。


それに気がついた時、私は私の中にも1人の子どもがいたことに気がついた。


もっと、沢山お父さんと遊びたかった。

もっとお父さんと遊園地に行きたかった。  

お母さんとショッピングに行ってみたかった。

お母さんに、私の質問をちゃんと聞いて欲しかった。

顧問に褒められたかった。

祖母に父だけでなく私を見て欲しかった。



どうしようもない子どもがそこにいた。私も、何も大人と変わらなかった。


どうしようもない子どもが心の中にいた。子どもは私を忘れないでと言わんばかりに、ずっと泣き叫んで、ぶーたれて、怒り狂って、不貞腐れて。でもその子どもに私は気がつかなかった。気がつこうとしなかった。


許せないこともされた。許すつもりもない大人も中にはいる。

でも、赦す赦さないとか、いまはどうでもよくなってしまった。

みんながみんな、どうしようもないのだ。いまはそう思う。20歳のいま、そう思う。

大人も、子どもも、その間にいる私も、心の中に子どもを抱えて、その子どもを見ないふりをしている。ただ、それだけだ。


だから、私以外も、きっと私だ。


あなたもわたしもあのこもあの人も、心の中にどうしようもない子どもを抱えて、生きている。













『魔女の宅急便』からみる13歳の就活

魔女の宅急便、今見ると趣きが全く違います。

これは、13歳の女の子が歯を食いしばって就活して、自分で生きていこうとする話です。今の私にはそう見えました。以下、感じたことのメモ。

 

 

 

 

 

 

1.「空を飛ぶしか能がない」

 

 

 

「空を飛ぶしかできない」という言葉、物語の至る所に登場します。

 

旅立つ前、実家のお母さん(魔女)が病気のおばあさんに薬を作ってあげながら、「あの子(=キキ)は空を飛ぶことしかできないから」

 

旅立ちの夜、出会った先輩魔女が一言。

「私は占いができたからなんとかやっていけてるわ。あなた特技ないの?」

に対してキキ

「私は飛ぶしか能がないので」

 

後半、魔法の力が弱まり空を飛べなくなったキキが一言。

「私は修業中の身です。空が飛べなくなったら、本当に私ただの能無しになっちゃう」

 

魔女の中では「空を飛べること」ってあたりまえなんですよね。出来てもプラス加点はされないけど、かといって出来ないと大幅なマイナスになる。

だから、「それしか能がない」とか、「それしかできない」と卑下の言葉をつけないと、特技として話せない。し、出来なくなったら「こんなこともできないなんて本当に能なしだ」と必要以上に落ち込んでしまうんでしょう。

キキや魔女たちにとって箒で自由に空を飛ぶということは、特技なんて言えるほどのものじゃない(と思ってる)んです。

 

一方で、魔女が一切いないコミュニティ、大都会コリコでは、キキの空を飛ぶ力は賞賛の的となります。

 

「あんたすごいじゃない!気に入った」とキキの力と人柄を気に入ったおソノさん。

 

空を飛ぶことを夢見ていて、実際に空を軽々と飛んでしまうキキに関心を持つトンボ。

 

キキの箒にわくわくしてまたがって、こっそり真似をする「コスモス色」の服を着たおばばさん。

(冒頭で魔女の黒い服を初めて着たキキが「コスモス色ならいいのにな」とむくれるシーンとの対比かな?)

 

これってようは、フィールドによって自分の能力は「特技」にも「それしか能がない」とも言い換えられるということだと思います。

 

 

ここで、就活でお馴染みの質問事項「あなたの強みはなんですか?」

 

強みとか知るかよ、ただの普通のバイトと授業とゼミに明け暮れるJDだわって、これまでは思ってました。ですが、キキの姿を見て、そんな私にもフィールドを変えれば(=視点を変えれば)自分じゃ気がつかなかった特技や能力に気付けるのかなって

 

 

 

 

 

 

 

 

思うわけないじゃん!!実際何もないわ!ぼけ!

 

 

 

 

 

 

2.「コミュ力を持ってしても避けられないクソとのエンカウンター」と「1人ですべてを背負う覚悟」

 

 

冒頭の田園風景から一転、大都会に転がり込んだキキにとって、毎日は驚きでいっぱい。そしてなんとか適応し渡り歩いていくのに必死です。

 

もともと、お母さんの作る薬を買いに来たお客のおばあさんに愛想よくハキハキ挨拶できたり、旅立ちの見送りに友達がたくさん来ていたことからコミュ力の高さを見せつけていたキキ。

 

しかし、1人で世の中を生きていくって愛想とコミュ力という大きな武器をもってしても難しいんだなと。それが新しい環境なら尚更で。

 

どんなにコミュ力があっても、愛想良くしても、嫌なやつや理不尽なこととのエンカウンターって避けられないんですよね。働くってなったらそれはなおさらで。

これまでは、そのエンカウンターを親や周りの大人がある程度一緒に引き受けてくれたけど、これからは1人で背負わなければいけないんだなぁって。

 

 

 

 

 

生意気なニシンのパイの少女の配達の帰り、雨に濡れ熱を出してしまったキキ。

翌朝おソノさんがあったかいミルク粥をもってきてくれて、しばらくキキの様子を見た後店番に戻るため、立ち去ろうとする。

「おソノさん」

ってキキは呼びかけるけど

「……ううん、なんでもない」

 

ってすぐに言葉を切るんですね。このシーン多分、「もっと一緒にいて」って言いたかったんだろうなぁと。

 

昨日頑張って配達したのにこんな嫌な客がいて、腹が立って、しかも雨にも打たれて、パーティーにも行けなくて、熱でダルくて、とっても辛い。

 

って言いたかったんだろうなぁって思って、胸を打たれました。どんなクソなことやクソな奴に会っても自分で消化して乗り越えなきゃいけない、人には頼れないし頼らない。キキのそんな覚悟が見えた気がしました。ここすごいジーンとした。

 

 

 

総括すると魔女の宅急便ってすごい話ですね。思春期の話と宮崎監督は言ってましたが、どっちかっていうと思春期の子(第二次性徴期の開始から終わりまで)よりは、社会に出る前の、独り立ちする前の青年期の人の方が胸にくるものがあるんじゃないかなー。

 

独り立ちの過程として、私たちには就活があり、キキには修業がある。

 

そんなことを考えながら、ぼんやりとテレビを見てました。

 

 

 

 

 

 

三浦海岸に沈む夕日をみたくて猛ダッシュした話

トピック「年末年始の風景」について

 

分かる人はあれ?と思うタイトルです。ですが、今しばらくお付き合いください。

 

先日、大晦日にみさきまぐろきっぷを利用して横浜→三浦海岸→三崎口→三崎港という日帰り小旅行を楽しんできた。

 

横浜⇆三崎口京急線代+京急バスフリーパス+食事券+レジャー施設利用券ついてお値段2960円スペシャルおとくなみさきまぐろきっぷ。前々から気になってはいたものの、ついに今回使う機会に恵まれたので、撮った写真に簡単な文章を添えてルポっぽく発信したいと思う。

 

 

10:00に横浜の京急中央改札の前で待ち合わせ。

だがまさかの相手が迷ってしまい。お互いに券売機できっぷを買い、各々改札を通ってホームで合流することに。青春18きっぷ的な感じで、お客様センターみたいなところで買うのかなと思ってたから結構びっくりした。

 

そこから快速に乗り三崎口方面へ。途中YRP野比駅??!!って駅名に驚愕しつつ、とりあえず三浦海岸へ。綺麗に言えば、めちゃノスタルジーな、無骨に言えばちょい寂れた昭和っぽい街並みをテクテク歩いて、まずは腹ごしらえ。

 

廻転寿司 海鮮さんへ行った。

 

文句なしに美味しかった。写真撮るの忘れるくらい。

まぐろきっぷ出すと問答無用でセットを出してくれたんだけど、まぐろ5貫(大トロ?中トロ?赤身?謎の美味しいところと焼いたまぐろ)、イカ×2、ハマチかイナダ×2、白身魚×2と謎の軍艦っていう計12貫。

 

他のランチセットメニューの相場が1000〜1500円くらいだったから、このお寿司だけできっぷ代の半分を占めていることになる。恐ろしや〜

 

たらふく食べた後は歩いて三浦海岸へ。神奈川だからって思ってたけど、信じられないくらい海の水が綺麗でびっくり。浜辺歩いて、カモメ追いかけたりした。

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海が綺麗。あと大根がずらーーりと。圧巻。

海の家の残骸、波に乗ろうとしてるサーファーがちらほら。冬の海って平和だなー。パリピッピしてなくてホッとしました。

 

三浦海岸でぐだぐだした後は三崎口へ。そっからバスに揺られ20分。

 

レジャー施設利用券使うために、遊覧船?にじいろさかな号が出る船着場へ

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にじいろさかな号です(虹色じゃない※借り物画像)

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これに乗ってしばらく城ヶ島方面まで遊覧。船底がガラスになってるので魚が間近で見えたり。かもめがいっぱい寄ってきて可愛かったり。和みました。

 

40分で遊覧がおわって、海に沈む夕日見たくない?!となる。城ヶ島かで悩んだんですが、三浦海岸がすごく素敵だったので、また戻ってみようということに。

 

この時の時刻が15:55くらい。日の入りが16:35なので、とても際どい。

 

大急ぎで三崎口までバスで行き、京急にのって三浦海岸まで戻る。そして、三浦海岸駅からは走る走る走る!

 

 

そして、私たちはついに16:30に三浦海岸へ到着した

 

 

 

 

 

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って、ここ東海岸やないかーーーーーい!

 

一気に疲れが。そして大笑い。

 

皆さん、三浦で夕陽を見たければ、大人しく城ヶ島へ行きましょう…

 

 

 

 

 

のぼうの城で上地雄輔という怪物を見た

あえてSMAPではなく、その裏で放送されていた『のぼうの城』について書きます。てか、石田三成を演じていた上地雄輔に戦慄したことについて書きます。

 

 

まず簡単なストーリーのあらまし

豊臣秀吉が天下統一目前

→最後に関東の北条氏攻め落とすぞ

◉天下の豊臣氏vs北条氏とその子分領主たちの構図が出来上がる。決戦の地は小田原城。子分の大将たちはみんな小田原へ駆り出される。

北条氏の子分の城の一つ(野村萬斎一族の城:忍城in埼玉)の討伐を任されたブンシャカ

→やっべ!チャンス来たわ!親方様みたいに俺もカッコよく憧れてた水攻めでガンバンベーしたいわ!

◉しかし、(萬斎一族の当主:古畑任三郎の西園寺くん)は多勢(豊臣2万)に無勢(萬斎500)と判断。小田原行くふりしてこっそり豊臣に下り開城の意思を伝える=北条裏切る

◉その旨聞いたお留守番役萬斎「やっぱ無理だよねーわかるわー」と一旦は開城を受け入れる。酒盛りして三成待つ。

◉しかしその降参に対し

 

「もっと熱くなれよ!」気に食わなかった上地雄輔が使者を使ってわざと萬斎を怒らせる!

(萬斎といい感じの姫寄越せと言われ、萬斎ガンおこ)

 

→怒った萬斎、無謀にも開戦宣言

 

とまあ。なんやかんやありつつも結局は多勢に無勢どー戦ってくの?っていうのがこの話の大きな骨格となります。 すごい既視感!ってわけでストーリーの基本プロットは単純で、古今東西使い古された日本人大好き下克上物語なわけです。

 

んで、この作品、

野村萬斎さん面白い〜変だけど愛されるキャラクターを熱演してる〜

とかいうのが主な感想だと思います。ですが、私的には

 

「え?なんであんな奴が人気者なの?」

としか思えなかった。なおかつ

 

「え?そこでキレちゃう?そこは譲っちゃう?そこは怒らないの?そこは許すの?」

 

っていう????な言動が彼には多すぎて…

なんかさ、一貫性がないんですよね、萬斎。だってさっきまで「豊臣とか無理だよね〜」とかいった次のシーンで姫とられるって聞いて「戦いまする」とか言っちゃうし。

開戦前、領内の者たち鼓舞しようとお立ち台に上がって「みんな〜(開戦することになって)ごめ〜ん!」ってテヘペロしたかと思えば、今さっき息を引き取った父親(平泉成)のこと思い出してぐだぐだ泣き姿(でも泣いてはいないの、変な顔してるだけ)晒し。

たかと思えば、領民の「がんばれ〜」って掛け声に秒で笑顔になったり。

 

え?気分の切り替えと意思決定の切り替え早すぎじゃね?怖いんだけど?

っていう感じでまるで共感も愛着もわかないキャラクターでした。のぼう様。

 

 

それに引きかえ、ブンシャカ様いや三成さんはね全然違いました。

なんかね、彼は彼で正直バカなんですけど、バカなりに真っ直ぐだし一貫性があるんですよ。萬斎にある意味不明さとか????なところがないんです。狂気がないんです。

 

映画の冒頭、秀吉が鬼アツい敵相手に壮大な水攻めかまして豪快に破るってのを三成が見てて「わー最高にカッケー」っていうシーンがあります。

この「カッケーーー」こそ、三成の根幹にある一貫性なんですよ。おそらく彼の一貫した軸は単純明解。

 

アツーい男と、アツーい戦して、最終的には自分の圧倒的力を行使して水攻めしてカッケー錦飾る

 

ほら、もうビックリするくらい単純。

でも、だから、この「カッケー」があるお陰でこのお話って成り立ってると言っても過言ではないと思うんです。

 

 

だってねえ。2万対500ですよ。普通に考えたらね、そんなの秒で勝敗がでるに決まってるじゃないですか。お話なんて、小説なんて、映画なんて作る余地もなくあっけなく終わる雑魚戦になるに決まってるじゃないですか。でも、現に映画がここに存在して、多勢に無勢が健闘するというスペクタクルな話が成立するのは何故か。

金と力にかこつけて汚い手使って、小国のでくのぼう萬斎を捻りつぶすことなんていくらでもできるはずなのに、三成はそれをしないからです。じゃあ、なぜそれをしないのか、それは「カッケー」じゃないからです。

 

「カッケー」に踊らされ、萬斎に翻弄される実直水攻めバカな石田三成。映画の中盤で、三成に与えられたそのキャラクター性に気がついた時、

 

私は戦慄しました。

 

 

これ、上地雄輔氏のイメージそのままやないかーーーい!!!!!

 

 

まんますぎですよね。適任にもほどがあります。

 

なんか彼に対する批判も聞いた気がしましたが、ちゃんと台詞言えてたし、ヒゲにあってたし、鎧兜似合ってたし、よくないですか?私は上地雄輔石田三成、とても好ましいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倉橋ヨエコさんって知ってますか?

 

倉橋ヨエコさんが大好きだ。

 
 
ヨエコさんの作品はとても独特である。
第一に、メロディラインがなんか変だ。
変なところで盛り上がり、盛り上がりに従って音程は中途半端に高くなって(あるいは極端に高くなって)、フレーズがおさまるところでは音程が下がりきらず変な高さでふらふら低空飛行をする。(一例:『椿荘』『蛙の歌』『部屋と幻』)
だから、彼女の書くメロディラインはとても不安定で掴み所がない印象をうけやすい。し、メンタルが不安定なメンヘラの耳と親和性が高い。
 
第二に「歌声が下手(に聞こえるようにわざとしている)」だ。
誤解がないようにいうと、断じてヨエコさん、歌が下手なのではない。だが、曲を聴いてるとなんかすごく「下手」に聞こえる時がある。『梅雨色小唄』とかは綺麗で誰が聴いても「上手く」聞こえるだろうから、多分わざと彼女はわざとそうやって聞こえるように歌ってるんだと私は思っている。
何がどう「下手」なのか。音程とリズムの取り方がめちゃめちゃなのだ。カラオケ測定マシーンとかで測ったら音程上がりきってないです、とかリズムあってないですとか言われちゃいそうなくらい、型にピッタリとはまってない。感情の揺れ動くまま、思うままに声を張り上げ、歌い上げている。叫ぶように。泣くように。駄々をこねるように。
カラオケ採点歌手の某.Jとは正反対なのである。
 
第三に、歌詞が独特だ。
同じ言葉を繰り返したり(『夜な夜な夜な』『不安のお山』)、シャバダバシャバダバ言ったり。
ポップでファンシーな忌み節から、キラキラスイートなストーキング妄想ラブポエム、ドロドログズグズの嫉妬の叫び、お布団をしくしく濡らす自己嫌悪の涙まで。ヨエコさんの歌詞は、どれももれなくぶっとんでる。ぜひ確かめていただきたい。
 
最後に倉橋ヨエコ初見の方にぜひ聴いていただきたいおすすめ3曲を勝手に紹介して、結びとする。
 
 
 
 

1.  2番目の道

ライトなもの。ライトといっても曲調に反して歌詞はほの暗い。開き直りの歌。
 
♪そうよ、2番目の道
 
 
 
 
 

2.  沈める街

これぞヨエコという曲。自分を捨てた男を「あの子」って呼ぶ感じが、未練タラタラで無理してる感じでとても良いです。
 
♪アイロンのかけ方をほめてくれたあの子を今処刑します
 
 
映像はファンお手製
 
 

3.  流星

RYUSEIつったら倉橋ヨエコですよ
 
♪結局私は1人きり 出会った意味などありますか?
 
 
これもファンお手製
 
 
番外編:今日も雨
ポガティブ(ポジティブなネガティヴ)で泥臭いヨエコ流ロック
 
♪でも飛び出して 飛び出していこう  待ってる人はいないけど  
 
 
2008年に「解体」されてしまった倉橋ヨエコさん。今どこで何をしているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

そして、父を語る1

 

 

私の父は、一昨年の11月にホスピスで死んだ。

 
 
職が続かない人だった。建築会社、証券会社、中規模商社と将来設計が感じられない転職を繰り返したのち、40半ばで拾ってくれたシロアリ駆除会社で左遷に合い自主退職。その後は郵便局や冷凍センターのアルバイトにつくも、それらもどうして長続きはしなかった。
私が中学生に上がった年、ついに父は再就職と労働を放棄した。
日がな一日家にいて、たまに近所をボロい自転車でフラフラし、ブックオフで読みもしない三流自己啓発本を買いあさり、セブンイレブンダイソーで食べ物を買いこんでは食べ漁り、酒をあおり、妄想で家族を怒鳴り、昼夜問わず爆音で矢沢永吉をかますようになった。
 
アル中無職アラフィフ(2児の父)の爆誕である。
 
こうして冷静に父の姿を字面に起こしてみると、我が父ながらもう、なんというか、お腹いっぱいだ。
 
時を経て今は素直に、父に対してある程度の距離をもってして「お腹いっぱい」と言うことができる。だが、当時弱冠12歳の私にはこの父はあまりにも、そうあまりにも「クレイジー」で「キチガイ」で社会の型からはずれた負け犬だった。この世の中で最も恥ずべき、最も隠すべき、最も蔑むべき存在であった。
 
中学生の私が知っていた世界や社会はあまりにも狭かった。そして父とは違った「父親」たちばかりが生きていた。そんな「父親」の庇護のもとのびのびと生きる「普通の子ども」。私の世界はそのペアで溢れていた。私だけが異質で、足りない子だった。そう思っていた。
 
「私ちゃんって、変わってるよね(笑)」とよく言ってきたお金持ち一人っ子のゆめちゃん(仮名)の家のお父さんはCanonに勤める真面目サラリーマンだった。
 
深海魚のコブダイにそっくりだったいじめっこのももかちゃん(仮名)のお父さんは地元で知らない人はいない地域の人気レストランのコックとして華々しく働いてた。
 
一見家庭が荒れてそうなクラス一番の番長の家のお父さんだって、漁師って職業を全うしてた。
 
だいたいの父親は働いていた。父親という存在は、夜爆音で矢沢永吉を聞かず、酒を呑んだくれず、酒からくる妄想で子供を怒鳴らず、まっとうな職についていた。まっとうに生きていた。
当時の私からしてみればまぶしくて、「格上」の父親たちだった。同級生たちは皆「格上」の子供に見えた。この世界は、「格上」の父親が率いる「格上」の家庭ばかりだ…それに気がついた時、私は馴染めないクラスの教室の片隅で、1人で本を読んでるフリしながら絶望した。あの時の惨めでどうしようもない気持ちは今でも覚えてるし、これから先、忘れもしないだろう。
 
コネなし職なし金なし協調性なし。ないないづくしの父が率いる家庭は、当時の私にとっては沈みゆく泥舟以外の何物でもない、居心地の悪いものだった。父無職アル中、パートで母は過労から難聴に、父を一切責めない過保護な父方の祖母、ADHD+知的な障害をもつ、「ふれあい学級」の弟。もう、てんこもりだ。お腹いっぱい通り越して、吐きそうだった。
 
自分の人生はクソだ、詰んでると思った。いつしか父と家族と、それから「自分」が私の中で「格下」で「負け犬」で、「恥ずべきもの」となっていた。そうやって、私は自分に呪いをかけたのだ。
 
 
父の無職化を契機とした、この「自尊感情崩壊クライシス」は思春期以降の私と父との関係を徹底的にこじらせ、家族を苦しめた。
 
中2くらいまでは、それでもなんとか取り繕うことができていた。シンとした食卓で、必死に明るい話題を提供し父の機嫌をとったり、ブックオフで仕入れた二束三文で手垢まみれ教養本を、深夜勝手に自室に侵入してきた父親に手渡されても「ありがとう」と笑顔を見せたり、友達と下校中に街を自転車で徘徊している父に大きな声をかけられても、嫌な顔ひとつしなかった。祖母から私の息子(父)こんなにすごいの武勇伝を聞かされてもスルーせず聞いたフリをできた。祖母に「私ちゃん、将来は弟くんのこと頼むよ、あの子は1人で生きていけないから。絶対ね」とテメェの息子の処理もままならないのに将来を約束された時も、神妙な顔をしてうなづけた。疲れ切った母に、学校での悩み相談をし「私ちゃんは理想が高い、考えすぎ、そんなの普通、大したことない。」とあしらわれても、言い返さなかった。そんな、器用な真似が出来ていた。
 
それは、「育ててもらった恩がある」とか「子どもは親を大切にしなければいけない」とか「家族は何よりも大切なものである」といった世間に溢れる善良な言葉たちに、本当は納得してないくせに、納得したふりをしていたからだった。善良な言葉たちに日々押しつぶされ、息も絶え絶えに、やっとのことで自分の感情を殺しながら生きていたからできた芸当だった。
 
「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「親なんだから」「家族は大切に」「家族は大切に」「家族は大切に」「家族は大切に」
 
母が、父方の祖母が、親戚が、養護教諭が、スクールカウンセラーが、先生が、テレビが、本が、映画が、そう私に言い聞かせた。
 
「仕方ない」「仕方ない」「仕方ない」「我慢して」「我慢して」「我慢して」「それが当たり前」「それが当たり前」「それが当たり前」
 
当たり前じゃない父、当たり前じゃない家庭。なのに、そこは、私には当たり前を求めるのか。
 
ある時、怒りが一気に爆発した。
 
怒りに任せて包丁を持って、母に切りかかった。父にではなかった。母に切りかかった。父は私を止めもせず、自室に籠もっていた。祖母に止められた。警察とかは特に呼ばれなかった。
 
全ての騒動が終わった後、父は自室から出てきて、一言私に言った。
 
「お前、頭おかしーんじゃねーの?」
 
負け犬の遠吠えだと、その時は思った。
 
 
(親も、家族も、たいしたことねーな。てゆーかクソじゃん。てか、産んだのもあんたらがセックスしたからじゃん、私頼んでないじゃん別に、もうどーでもよくね?恩とかなくね?好きにしよ)
 
気弱ないい子ちゃんが、暴力に任せた開き直りを覚えた瞬間だった。
 
 
そこから先は、「好きにした」。
父親の存在を徹底的に無視した。話しかけられても答えず、視線も向けなかった。いない者として扱った。でもイライラした時にだけ、サンドバッグみたいに怒鳴りつけた。気まぐれに、思いのままに。
爆音で矢沢永吉かけた暁には、それと張り合うくらいの声量で怒鳴りつけた。さいっこうにスッキリした。なんでもっと早くこうしなかったんだろう、私、バカじゃんって思った。
 
「うっせーよカス、黙れ」
「お前なんか糞製造機なんだよ」
「とっとと死ね」
 
 
色々言った。父は言い返さなかった。祖母も母も何も言ってこなかった。何も。
でもたまに、「俺は大学受験の頃、浪人して不眠症になった」だとか、「長年インポだった」とか、父は言い訳なんだかよくわからない妄言を返してきたりもした。は?今更カワイソーしろって?ダルっ、てかキモいと私は一刀両断した。
 
「キモい!!!死ね!!!!!!!!!」
 
 
そのうちに、父はヤザワを聞かなくなった。代わりに部屋のリビングで、すっごい昔に撮ったホームビデオを日中ぼうっと眺めることが増えた。ずーーっとビデオを見てた。このDVDのご時世にビデオデッキでビデオテープを見ていた。うちにはDVDプレイヤーがなかった。
 
荒い画面の中には、幼い私がいた。
 
音割れする音声が「私ちゃーーーーん」「私ちゃーーーーん」とよちよち歩きをする私に呼びかけていた。それはずっと前の父の声だったり、母の若い声だったりした。
 
「今日はどこにきましたか?」
「今日は何しにきたんですか?」
「たのしいですか?」
「よかったねーーーーーー」
 
声はずっと幼い私に話しかけていた。私は恥ずかしそうに、いちいちそれに答えていた。タンポポの花かんむりを、最高の宝物を持つような手つきで優しく抱えていた。
 
 
それを見て、画面の中の自分とそれを見つめる父を見て、ふざけるな、とその時私は怒りを覚えた。ふざけんな、ふざけんな、何が家族だ、何が家族だ、綺麗事だ、綺麗ごとだ、家族なんてクソだ!
 
「こんなん見て何になるんだよ、カス!私がクソ娘になったって言いたいんだろ!!子が子なら親も親だ、お前のせいだよ、お前のせいだよ、お前のせいだ!現実逃避してんじゃねーよクズ!」
 
思ったことは、素直に言った。好きにした。父は黙り込んだ。そして、とうとう父は自室にこもるようになった。
 
 
つづく